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取材記事内をタグ「史跡・歴史的建造物」で検索した結果,237件の記事が見つかりました。

田熊八幡宮の廻り舞台

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 重要有形民俗文化財「田熊の舞台保存修理工事報告書/田熊八幡神社」より

竣工 境内全景(正面に舞台、その西側(下手)に花道が拝殿に続く)

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 左より舞台・花道・外観・舞台部内部(西から)・奈落部内部(西から)

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 皿回し式廻り舞台(盆を足で蹴って踏みまわす)・回転機構(横から)・回転装置(南からみる)

国の重要有形文化財に指定(昭和50年9月)されている「田熊の舞台」は明治4年(1871)の建築であり、明治・大正・昭和と娯楽の場として利用されて来ましたが、戦後の娯楽指向の変化によってその利用がされず、建築後およそ130年が経過し、傷みが進んで倒壊が危ぶまれる状態でしたが、先祖が残してくれた町内では唯一の文化財であること等、町民の皆様の理解が高まり、特に町外に在住されている田熊出身者の賛同も得られ、最終的には、目標額を超える多額の浄財が寄せられ、平成16年12月に竣工しました。

★2009年の取材はこちらからどうぞ津山国際総合音楽祭

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2011年10月のイナバ化粧品店と川崎八幡だんじり

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2011年10月15日(土)小雨が降る中を川崎八幡宮のだんじりが、子供たちを乗せてイナバ化粧品店の前を勢いよく走っていきました。途中から土砂降りになり急遽コースを変更しておられました。(この日は宵祭り)

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堀坂上の稲荷山

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真澄社(向かって右から2番目のお社)
 真澄社は、堀坂上の市道からすぐ登れる耳高下の俗称稲荷山の山上にあり、上からは堀坂田圃が見わたせます。毎年4月上旬の日曜日に、上土居が真澄社、金毘羅社、稲荷神社、井手守社の合同春祭りとして祀っています。この日はお花見を兼ねて行われ、子どもから年配者まで多くの住民が参拝してにぎわっています。
 (1)真澄社の内容は、定かではないが伝えによると、明治の初期に起きた人身事件の供養のため村長が中心となって祀る慣わしで、今日まで引き継いでいます。
 (2)金毘羅社は、讃岐(香川)の金毘羅神社の勧請として、また稲荷神社は、備中高松(岡山市)稲荷神社の勧請として祀っているものです。昔遠くへ参拝に出かけられなかった時代に、こうした分社を作って、農業・商業などの繁栄と家内安全を祈願したものです。
 (3)愛宕神社は、京都の愛宕神社の勧請で“火伏の神”と呼ばれ毎年8月24日の夕刻に社前で迎火をたき、町内に火災がないよう安全祈願をしています。
 (4)井手守社は堀坂田畑の水が常に保たれるように“水の守”として祀っています。

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千人塚-三界萬霊塔-

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<最初の三界萬霊塔-千人塚->
 江戸時代、津山藩では、はじめは罪人の処刑場は城下町西はずれにある筋違橋の外側にあったが、その後処刑の場所は川辺河原又は兼田河原になった。兼田は城下町の東部の川崎村の一部で加茂川の西岸に位置し、この場所はまた出雲街道の渡し場でもあった。往来の多い所へ刑場を設けて、みせしめにするという意図があったためと思われる。
 川辺河原、兼田河原での処刑の記録は数多く残されている。
 多くの罪人が怨念を抱きながら生命を捨てた兼田河原に、いわゆる千人塚が建てられたのは寛政2年(1790年)で、高さ5尺余(1.5m)の塚の正面に「妙法 三界萬霊塔」、側面に願主としての「泰安寺剛誉、地蔵院大賢、本願寺神宗」、裏面に願文が刻まれている。願文の要旨は次のようである。「作州津山領の川崎村兼田に石碑を創建して有罪の亡魂を供養回向しようと欲する。時に寛政2年庚戌、2月吉日。」萬霊塔を創建して供養する。
この功徳をもってあまねく有罪の亡魂を導いて一切の満霊が同じく覚りの路を登らんことを願うものである。
 時の藩主は康哉で、願主の三寺は松平家とは特に関係が深く歴代藩主はしばしば参旨した。
 なお、その後も引き続いて明治初年までこの地で処刑が行われた。

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川崎八幡神社の湯立て神事

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▲湯立て神事(写真は2010年) 川崎八幡様年取材記事 

川崎八幡神社縁起 

 鎌倉時代(1185~1333年)後期、朝廷は南北に分裂し、うち続く戦乱に世相は騒然を極めていた。

 元弘二年(1332年)後醍醐帝は、隠岐配流の途中、院庄に駐輦された。
 備前国の忠臣、児島高徳は、杉坂峠(作東町)から御跡を慕い、院庄館で夜陰にまぎれ庭の桜樹に十字詩を奉った。

当事の林田郷川崎村は、吉井川と加茂川が合流して出来た三角州一帯(宇古屋敷)に在り、農耕を主体として生計を営んでいた。洪水による自然災害や、うち続く戦乱のなかで住民は信仰により安住を求めるようになったのであろう。
 元弘元年(1331年、661年前)豊前国宇佐郷(大分県宇佐市)に鎮座する宇佐八幡宮(祭神:誉田別尊「応神天皇」、比売神、気長足姫尊「神功皇后」の三神)を勧請し古屋敷地内に奉祠した。

 慶長八年(1603年、389年前)森 忠政が津山藩主として、信州川中島から、18万6500石を領し入卦、二代長継、三代長義に亘り、石高を増やすため新田の開発を図るとともに、平地から集落を高地へと移転させ農地の拡張を図ったため、実石高は26万石を超えるまでとなった。

 貞享二年(1685年、307年前)三代藩主長義の代に、川崎村の集落は北側の高台(宇寄広)に移転させられた。これにともない、神社も現在地(津山市川崎八幡西1042番地)に遷祠され、社号を弓矢八幡宮と称し安産の守護神として氏子はもとより近隣からも崇敬された。

 境内に三宝荒神社、末社として大歳大明神、惣道大明神、春日大明神、兼田大明神の四社が合祠された。

 現本殿は、近郷まれに見る緻細な彫刻を配しており、文政四年(1821年、171年前)津山藩主、八代松平斉民(確堂)の時代に再建されたものと考察される。(基礎台石に文政治四年三月、石工嘉左衛門の記名がある。) 旧拝殿や舞台、御輿、末社について江戸中期から後期にかけて建設されたものと考えられているが記録はない。先祖代々、崇敬維持されてきた神社拝殿、末社が老朽のため、このたび改築の運びとなったことは、氏子をはじめ関係者の皆様の信仰と郷土愛の賜であり、これを子々孫々に至るまで敬拝、継承を念ずるものであります。(2011年7月18日取材)

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西賀茂神社(津山市杉宮字上の山)

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▲西賀茂神社(2011.7.16取材)津山市杉宮字上の山406番地
鎮座地 大国主命 北境内社 三嶋神社 事代主命
御祭神 味鉏高彦根命(あじすきたかひこのみこと) 南境内社 八幡神社 誉田別命
御由緒
 大化元年物部芳子の祭処と云う往古鴨神社と号し加茂一郷の総社。中古より杉大明神さまと慕い郷人篤く景仰す。東三百九拾間のところ鳥居野(勝加茂保育園の東約150米に地名あり)の神事場には楢部落を含め各部落の神輿神幸郷人こぞって奉行室町末期まであり。今は往時をしのぶのみ。
 現本殿、木鳥居、太鼓は美作国主 森忠政公が津山城築城の時、丑寅位方よけの守護社として家中の伴八郎兵衛、長尾平左衛門を造営奉仕に任じ万治3年9月19日再建公儀寄進あり。夏越大抜祭の茅の輪くぐりは健康と家内安全を祈り、遠祖より連綿として伝承されている。明治6年西賀茂神社と改称幣帛供進社に指定された。
 御祭神の一柱 味鉏(すき)高彦根命の鉏(すき)は農耕用の鋤の意で出雲地方と共に製鉄業が栄えた中国山地の一角。この地に製鉄の神として祀られた境内小祠は神地の遠祖霊奉斎社。昭和20年まで勝加茂運営護持、以後中村と杉宮の氏子が奉護す。
 平成4年7月25日石垣拡張と洗い出し工事完了を以って境内整備を達成す。神域は末永く昔の縁と神厳さを保つよう努めている。
神社祭儀
・再旦祭1月1日、春祭4月3日、夏祭7月下旬日曜日、秋大祭11月2日・3日、冬祭12月3日、月並祭
諸祈願祭
・安産、命名、初宮、七五三 ・厄除、交通安全、家内安全 ・心願諸祈祷
 社務所 勝北町中村282 0868-29-1977 宮司 青山内  (案内板より)

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軒戸(のきど)神社(津山市加茂)

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▲軒戸神社(2011.7.17取材)

軒戸神社由緒
御祭神 天照大神 豊受姫大神 大巳貴命、他
本殿  春日造
例祭  10月16日
末社  御崎神社 天満神社 粟島神社 祖霊社
    古老の口碑に曰く、当社は和銅7年6月田淵村(現塔中)青尾山の麓宮谷に鎮座し加茂郷鎮守と崇敬し加茂大宮と号す。後苫田大明神と唱へ奉る。元暦元年6月霖雨大洪水あり為に青尾山決壊し社殿諸建造物悉く流失せしに、御霊代神幸所の字軒戸の松に掛り留り給ふ依て、此所に仮宮建斎奉る之より軒戸宮と唱へたり、此水害の為社記旧記悉皆流失し漸く衰替し御造営等も賀茂郷中より仕来るも終に塔中、小中原、桑原、小淵の4ヶ村の限りとなりたりと云云。之素より伝来の記録なしといへども古昔より古老の口碑に伝へたり依て伝来の侭を記す。明治44年10月、桑原平野神社、小淵惣神社、小中原八幡神社を合祀す。(案内版より)

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堂明様(堀坂地区)

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堂明様
 中土居にある堂明様は毎年4月3日を中心に土居でお祭りをしている八幡道地蔵(通称:堂明様)であり、寛文11年(1671年)新野上分字今宮から現在地に移したものです。この地蔵菩薩様は当時村落でよくないことが次々と起き、こうした悪事をおさめるため、お祀りされていると言い伝えられており、この時期は西法寺が堀坂へ引遷してきた同じ頃です。
 お地蔵様は広大無辺な宇宙を浄化する無限の徳相で、無信心の人でも罪多き人でも、一心にお地蔵さんに念じればその罪を浄化し、病苦も災難も全て救済してくださると伝えられています。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

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