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津山城(鶴山公園)の石垣についてその2

その1その2その3その4その5

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▲表中門(二階建ての門で、大阪城、名古屋城、江戸城を除いて一番大きな門で、登城する石段としては全国でもまれな石段の幅といわれているそうです。)

津山城の石垣は発掘調査で見つかった埋没石垣を除き、城内で観察することのできるものについては、おおむね3つの類型に分類することができます。
1、自然石あるいは自然石を打ち割っただけの石を用い、角の部分も不規則な石で構築するもの。
2、表のみ面をのみで平滑に加工した石を用い、石と石の間を小さな石(間詰め石)で詰め、角には大きさのそろった長方形の石を用いるもの。
3、表面を繋で平滑に加工し形をほぼ四角く整え、間詰め石をほとんど用いず、角の部分も長方形の石を規則正しく積み上げているもの。の3つです。これらはその石の加工の具合などから古い順に1→2→3と技術が進歩していったものと考えています。

1の特徴をもつ津山城で最古階段の石垣は城内のどの辺りになるのでしょうか?
それは本丸の東側の太鼓櫓や月見櫓が乗る石垣、本丸の入り口の切手門南側の石垣、あるいは搦手側(裏手側)になる七間廊下石垣および裏鉄門枡形内の石垣などに見ることができ、本丸およびその周辺に限られるようです。(津山城百聞録より抜粋)

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塩手池の礫岩(れきがん)と化石

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塩手池の礫岩と化石(2010.12.25)
塩手池周辺には幅5m長さ100mにわたり基盤となる帯黒色の礫岩層(れきがん)がみられます。この層には海生の貝化石などが多く含まれています。これは今から約2000万年前の地質時代新第3期中新世に、津山盆地が古瀬戸内海と呼ばれる海だったためです。その内海には海生の貝が生息していただけではなく、パレオパラドキシアやヒゲクジラなどが泳ぎまわっていました。現在、礫岩塊群が露出する一帯は公園として整備されています。(津山市市場161-1番地)

記念物(天然記念物)【文2008津山市教育委員会発行:津山市の文化財より】

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその3

その1その2その3その4その5

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津山城を築城した森忠政は信州川中島の海津城から慶長8年(1603)に美作国1円18万6500石を与えられ、美作に入封しました。そして翌慶長9年(1604)に津山城築城を開始したのです。まさに関ヶ原以降の大名の転封、それに伴う新規築城という全国的な大きな流れに乗ったものです。

参考までにこの時期の外様大名による築城例をあげると、加藤清正の熊本城、細川忠興の小倉城、加藤嘉明らの伊予松山城、池田輝正の姫路城、藤堂高虎の伊賀上野城、伊達政宗の仙台城など日本を代表する城があり、津山城もそれらの城と匹敵する規模の城郭でした。さらに、津山城の築城は元和2年(1616)まで続くのですが、これは元和元年の武家諸法度の公布により築城を終了し、一応津山城の「完成」としたものと思われます。(津山城百聞録より抜粋)

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▲津山城の石垣。扇の勾配(65度前後が人の目からみて一番美しいといわれている。)

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその1

その1その2その3その4その5

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▲冠木門(公園になった為石段を作ったのですが、本当の姿は左右に防備のための石垣があったらしい)

「建武のころ(1334~1337)、すなわち足利尊氏が室町幕府を開いた頃、美作国の西北条部に鶴山という山があり、別名小篠山とも呼ばれていた。その南に留川(戸川)という清浄な川があった。付近には戸川町や林田町があって、毎月の一日と十五日には戸川の市と呼ばれる市がたち、美作国中の人々が群集を成して集まり、さまざまな商品の売買をした」(森家先代実録より)

ここでいう戸川町は吉井川の河原、あるいは川に面した安定し土地と考えられ、その町場を眼前にして、鶴山の中腹には福聚山妙法寺があり、その門前には門前町があったといわれています。
伝承では、妙法寺は津山城の「柳の檀」にあったとされています。この「柳の檀」というのは三の丸の段を指しており、鉄砲櫓の下の付近に大きな柳の木があったとされています。また、城内の煙硝蔵がった付近、現在の鶴山館が位置するあたりも妙法寺の院内であったと伝えられています。
そして、煙硝蔵の一段上の段には大きな桐の木があったことから「桐の檀」と称され、そこには鶴山八幡宮があったと伝えられています。また、戸川町には、後に城下の総鎮守となる徳守大明神が祭られていました。

慶長9年(1604)春、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い鶴山を城地と定めた森忠政は、まず「鶴山」の名称を「津山」改めたとといいます。そして、その年の秋には手斧始めとして徳守神社を造営し城下町の総鎮守としました。(津山城百聞録より抜粋)

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ふるさと資料館「温故懐館」特別展

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▲津山市総社の小林敏隆さんのお宅の、ふるさと資料館「温故懐館」で春の特別展が5月1日~5日まで開かれました。
当日は晴天で鯉のぼりも勢いよく泳いでいるなか、大勢の園児やお年寄りが来られて交流を深めておられました。
小林さんはとてもユニークな方で、何でも自分で作ってしまうのだそうです。ユニークな看板を見よう見まねで作ったり、ユニークな収集物も数多くあるのです。これらを年に一度だけ一般の方に開放して見せてくださるのです。(2010.5.1取材)

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旅館「お多福」のお宝(作州維新文庫)紹介

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 創業以来、80年を越えるお多福は、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されている。一例をあげれば、津山藩主松平康哉が描いた山水画。歴代藩主の中でも、特に名君として誉れ高い松平康哉は、宝暦12年藩主となり、学校を起こし藩士の教育を奨励、また武道の振興を講じた。そして能力のある人物の起用を広く進め、若き優秀な人材を発掘、登用することを常に心がけ、藩政改革に挑んでいった。しかし、その理想が結実することは容易ではなく、幾度もの紆余曲折があった。とくに天明年間は全国的に天災が多く、大凶作が続く困難な状況のもと、藩内外に倹約令を出して乗り切った。また江戸にあって康哉は熊本藩主細川重賢に私淑したほか、米沢の上杉鷹山・白河の松平定信らの諸侯と親交を深くし、幕政にも大きく寄与するところがあった。資料提供:旅館「お多福」(2010.5.10)
※作州維新文庫には、広瀬臺山遺墨、飯塚竹斎遺墨、津山藩御用絵師遺墨、作州文人遺墨、津山藩維新志士遺墨、平賀元義及び門人遺墨、江戸期岡山歌人遺墨などが収蔵されている。

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