津山城(鶴山公園) 桜の名所

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▲裏門すぐの所にある菜の花の景色がきれいです。(2008春取材)

春には千本の桜が咲き乱れ、西日本随一の桜の名所として多くの人が花見に訪れる鶴山公園(津山城跡)。とくにぼんぼりに浮かぶ夜桜の美しさは幻想的です。また、新緑の頃の藤、ツツジ、秋の紅葉、雪景色など、四季を通じて訪れる人の目を楽しませてくれます。天守閣などの建物は明治7年に取り壊されましたが、本丸、二の丸、三の丸の石積みは、高さが45mもあり昔日の面影を今に伝えています。
津山城築城400年を記念して復元された「備中やぐら」が平成17年3月18日に公開となり、新しい名所となっています。

入口付近・三の丸

■料金 210円(小中学生:100円*30人以上2割引)
■開園時間 

さくらまつり期間中:7:30〜22:00 

4月〜9月8:4019:00

10月〜3月:8:40〜17:00
■定休日 

12月29・30・31日
■交通アクセス

JR津山駅から徒歩15分

津山I.Cより車で15分
ペットの持込みはご遠慮下さい。


さくらまつりのイベントは

「津山瓦版」イチ押しコーナーでご紹介しております。

▲鶴山入り口で「さくら饅頭」の販売。

▲市の職員の方です。

▲商工会議所の方です。

皆さんご苦労様でした。

▲いろんな色のさくらが咲いて綺麗でした。


津山城の歴史より

津山城は、美作一国18万6,500石を領して入封した初代津山藩主・森忠政が、鶴山に築いた平山城です。



▲貸しつえが便利です。

▲鶴山城跡入口付近のさくら

▲鶴山城跡三の丸の菜の花とさくら

▲鶴山城跡三の丸より望む

▲表門から上がるとすぐの売店

▲鶴山城跡三の丸より望む

▲満開のさくらの下で仲間と食べる食事は最高です。さくらって世界中の人々を楽しませてくれているんですよね。

▲さくらまつりの期間中はイベントも盛りだくさんあります。

▲鶴山館では物産まつりがありました。


忠政は、慶長8年(1603)の入封当初は、美作国院庄に入りますが、領国支配拠点としての適地を探し求めた結果、美作中央部にあって古くから開けていた津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山(つるやま)の地を選びました。
ここには、すでに嘉吉年間(1441〜44)、山名忠政が城を構えており、当時は山上に鶴山

▲鶴山城跡入口

▲入場口付近の屋台風景

▲入場口のチケット売り場

▲鶴山城跡裏門入口

▲鶴山城跡裏門すぐのゴミ管理場所

▲鶴山城跡裏門すぐの売店

▲鶴山城跡三の丸のテント

▲さくらの花びらと遊ぶ子供。

▲藤の花と鶴山館(4月下旬)




八幡宮、南の山腹に日蓮宗妙法院があり、西の山腹には八子(や ご)町の集落がありましたが、これらを周辺に移転したうえで、翌慶長9年(1604)春、鶴山を「津山」と改め、築城に着手し、12年後の元和2年 (1616)3月に一応の完成を見ました。

築城物語

築城工事が始まって4年目になる慶長13年の春、厳しい労働に耐えかねた足軽たちが、 城普請奉行を襲うという事件が起きました。場所は城内の内山下、今村与一右衛門屋敷前。 棒を手にした足軽の一団が、仕事帰りの普請奉行に襲いかかったのです。結局、 足軽たちは成敗されたのですが、長年にわたる城普請の過酷さを物語る出来事でした。

また、この年の10月には吉井川南の山中の石切場で、 知行8,000石の各務四郎兵衛と1,000石の小沢彦八が喧嘩となり、 巻き添えとなった7,000石の細野左兵衛までみんな死んでしまうという事件が起きました。このとき、各務四郎兵衛は高田城(現在の岡山県真庭

▲三の丸へ降りがけ

▲三の丸へ降りがけ

▲三の丸へ上がりがけ(4月下旬)


郡勝山町)を預かる重臣だったため、 事件を知った高田城詰めの家臣たちが津山城に押し掛ける騒ぎとなりました。

▲表入り口すぐのさくら

▲二の丸へ上がりがけ右

▲藤棚(4月下旬)

築城物語A

小倉城主細川家からは城普請の完成に際して、 「篇笠形の釣鐘」が忠政のもとに贈られています。 この釣鐘は江戸時代を通じて津山城の天守に掛けられていたのですが、 現在は大阪の南蛮文化館に所蔵されています。

篇笠形の釣鐘(大阪・南蛮文化館蔵)  慶長10年、津山城において初めて大般若経の真読(経文の全文を省略しないで読むこと)が行なわれたとされており、 本丸御殿の一部あるいは天守などの建造物の部分的完成が推測されます。また、 『森家先代実録』によれば、忠政の第8子忠広は慶長9年に院庄村(現在の津山市院庄) で生まれているのですが、第9子御兼(於兼)は慶長11年に津山城で生まれています。

▲本丸へ上がりがけにある鐘

▲二の丸の売店


津山城には多数の櫓があり、そのほとんどは倉庫として利用されていました。 そのため、津山城では、煙硝蔵などの特殊な例を別にすれば、 一般には独立した土蔵の存在はあまり知られていません。しかし、津山城本丸御殿には、 立派な土蔵がありました。それは、「芥子之間御土蔵」あるいは「芥子之間御庭御土蔵」 と呼ばれていました。
  芥子之間は、公式の儀式の場である表向き御殿を構成する「大広間」「大書院」 「小書院」の三棟の主要な建物のうち、最も北に位置する小書院の中にあります。

▲本丸へ上がりがけ

▲本丸へ上がりがけこぶしとさくら

▲本丸へ上がりがけ


  小書院には、6畳の「上段之間」、8畳の「泥引之間」、8畳の「柳之間」、 そして15畳の「芥子之間」がありました。これらの中で、 「上段之間」が藩主の御座之間になり、それに続く「泥引之間」と「柳之間」 は御座之間に対するニ之間、三之間に相当します。

築城物語B

復元整備した備中櫓は、400年前に森忠政が築いたものに限りなく忠実な復元をめざしました。

しかし実際には、内装の仕上げなどは不明な点が特に多く、当時の櫓と「全く同じ」とはいきませんでした。


特に史料に記載の少ない内部の詳細な仕上げは、江戸時代前期に建てられた建造物を参考にするしか方法がありません。そこで、全国各地の類例を調査するのですが、実は津山市内にも江戸時代前期の建物がかなり残っていることが津山城整備委員会の調査で明らかになりました。


たとえば、森家の菩提寺である本源寺本堂の釘隠は江戸時代前期のものであり、なおかつ森家ゆかりの寺であるので、備中櫓の釘隠に、ほぼそのまま採用しました。

また、備中櫓2階の唐紙の文様は、これも森家とゆかりの深い妙願寺の


本丸には大小の櫓31棟・門15棟(天守曲輪含む)を連ね、内側の平坦面に約70の部屋を有する御殿を構えました。

▲本丸にある便所

▲本丸にある土壁の見本

▲本丸にある売店

▲本丸を下りがけにある穴

▲本丸の櫓跡


庫裏の襖の文様を採用しました。さらに建具は、長法寺に残る津山城に使用されていたと考えられる腰高障子をほぼそのままの形で使用しています。


限られた敷地を有効に使うために、備中櫓や表鉄門などを御殿の一部にあてているのが特徴です。

津山城百聞録より

▲本丸にある藤棚とつつじ(4月下旬)

▲本丸にある櫓(やぐら)

▲本丸にある櫓跡はデートコース

▲本丸にある鐘

▲本丸の北側はすでに紅葉の葉が芽吹いていました。さくらとのコントラストが美しい。秋の紅葉がみごとだろうと思いました。

※津山城のことなら、津山市の「津山城百聞録」に詳しく載っています。