「作楽神社」

岡山県北観光ガイド作楽神社後醍醐天皇と児島高徳

▲史跡 院庄館跡 国指定史跡」(大正11年3月8日指定)
院庄館跡は、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館跡と推定される遺跡です。
ここはまた『太平記』に登場する後醍醐天皇と児島高徳の伝承の地としても有名であり、明治2年には館跡の中央部に作楽神社が創建されました。 
大正時代の館跡周辺の切絵図には「御館」「御館堀り」「堀り」等の地名が見られ、当初の館の区域は現在の史跡指定地よりさらに大規模なものであったと推定されます。
また「方八十間」といわれた広大な館跡からは、昭和48年から49年と55年から56年に行われた発掘調査によって、井戸跡、建物の住穴等が検出されました。
現在、館跡の東・西・北の三方には、幸いにも延長約5百メートルにわたる土塁が残っており、往時をしのばせています。

▲史跡 女院塚案内
当神社参道東へ500mの所にある女院塚の霊主姫法師は人皇82代後鳥羽天皇のお妃なり承久3年7月13日京都を出発隠岐に西遷の途次院庄の此の地に於いて御逝去され女院塚の地に埋葬さる
  平成11年11月嘉辰建之   京都桜道吟社家元 桜道 日原行雄

▲道家大門歌碑
この碑は、作楽神社の祠官であった国学者道家大門(旧津山藩士、万葉調歌人 1830-1890)が、明治初年の廃刀令に悲憤のあまり詠んだ「弓とらず太刀さへはかずなりにけりかがしのまへをゆくもはづかし」という歌を刻んだものである。当社南方の墓域内にあったが、昭和46年に邸宅あとのこの地に移転した。


▲作楽の真名井

▲水を大切に

▲西東三鬼にちなんだ俳句の投書箱

▲平成の天皇のご即位をお祝いして植えられた記念樹。

▲鎌倉時代に守護職(大名)の館の東大門があった跡。

▲この橋を渡ると境内です。

▲おみくじ


岡山県津山市神戸433 神作楽神社(さくらじんじゃ) 祭神  (正祀) 

後醍醐天皇 (配祀) 

児島高徳公

例祭日 4月22日

境内神社 

護桜神社・水神祠


▲作楽神社の敷地図

▲神社の入り口に咲いている紫陽花。

▲いいこと書いてあります。

▲社務所

▲手水舎

▲社務所の近くにはテーブルとイスが。

▲拝殿

▲本殿の東側

▲本殿の西側

▲君が代さざれ石

この石は、石灰石が雨水にとけて、その石灰分を含んだ粘着の強い乳状体となって地下で小石を集結し、次第に大きくなってそれが地上に出て、君が代に詠まれているごとく千代、八千代を経てさざれ石の厳となりて苔のむすという実にめでたい石である。特にこの石は君が代発祥の地といわれる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったものである。

▲久しぶりに行ったら、ぐ〜んと綺麗になっていました。

▲敷地内の様子

▲裏側の様子

▲鳥居を入るとすぐ駐車場です。

▲国道179号線から入ると参道です。

▲にらみあ合いの松
江戸初期、美作18万6千5百石初代の藩主として森忠政(森蘭丸の弟)がこの地に築城を考え、慶長8年(1603)春、ここに到着した。適地を物色中、藩主夫人の兄であった名護屋九右衛門と、重臣井戸宇右衛門の意見が合わず、遂に両者の果し合いとなり相打ちで二人とも死んだ。
この事件で築城を津山の鶴山に変更、二人の墓を道路をはさんで造り、塚として松を植えた。ところが通行人に変事が続くので道を北へ移し、塚は田んぼの中となり南に井戸、北に名護屋と並び、一方が栄えると一方が弱まるところから「にらみ合いの松」と呼ばれるようになった。
この名護屋九右衛門とは、京の四条河原で歌舞伎をはじめた出雲のお国と浮名を流した名護屋山三のこと、出雲お国が郷里に帰る途中この墓に詣でて涙したと伝えられている。

▲津山市の案内板があります。

▲回廊

▲回廊

▲護桜神社
院庄故事の顕彰や作楽神社の創建・護持に功労のあった方々をお祀りしてあります。社殿は旧本殿(明治2年)を転用しました。

▲作楽神社の周りの外堀です。

▲神楽殿です。明治40年川上音二郎寄進。(川上音二郎が拝殿として寄進したもので今では神楽殿として使用されています。)

▲庭のハスがツボミでした。

▲庭

▲綺麗な景色