津山の洋学者達(1)

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ドイツ人医師シーボルト

▲シーボルト肖像

(長崎県立長崎図書館蔵)

1823年長崎の出島にオランダ商館付き医官として来日しました。シーボルトから直接最新の西洋医学を治療技術とともに教えられ各地から彼のもとへ集まったことにより日本における西洋医学の発展に大きく寄与しました。
宇田川榕庵と親密に交流しています。榕庵が送った押し葉のできばえが素晴らしかったようでシーボルトは2冊の植物に関する書物と顕微鏡を贈っています。その中に「江戸の医師にして博物学者の宇田川榕庵に、あなたの親友として記念に贈る」という献呈の言葉がかきこまれています。

シーボルトと日本人女性たきとの間に生まれた娘おいねは、産科の修行を志し、当時岡山で医師をしていた石井宗謙に入門します。

彼らの住まいがあったのが今の表町でその周辺は彼らにちなんで「オランダ通り」と名づけられています。

▲おいね

宇田川玄随(うだがわ げんずい)

▲宇田川玄随肖像

(岡山県立博物館蔵)

代々津山藩医を勤める宇田川家に生まれる。
「西説内科撰要」(18巻)という日本初の西洋内科書を翻訳刊行しました。この頃はまだ西洋の内科に関する知識は皆無に等しかったたので宇田川の名声は広がり、西洋内科に関する知識が普及していった。
宇田川家は代々漢方を専門とする医家ではじめは、玄随も西洋医学を拒絶してましたが、杉田玄白を中心とする蘭学創始者との交流により西洋医学の実証的な点に気付いたことにより西洋医学に目を向けるようになりました。
杉田玄白も「蘭学事始」で、「津山侯の藩医に宇田川玄随といへる男あり。これは元来漢学に厚く、博覧強記なり」と評し、「元来秀才にて鉄根の人ゆゑその業大いに進み」とも述べている。

宇田川玄真(うだがわ げんしん)

▲宇田川玄真肖像

(武田科学振興財団杏雨書屋蔵)

玄随の後、宇田川家は玄真が後を継ぎました。
彼も努力家で寝る間も惜しんで蘭書翻訳をしました。彼の部屋の障子には常に坊主頭の影が映っていたということです。
翻訳した解剖学書「医藩提綱」は医学書としてベストセラーになりました。解体新書刊行から30年後のことです。
「大腸」「小腸」リンパ腺の「腺」膵臓の「膵」はこの書の翻訳に当たって玄真が新しく考案した文字です。
また、西洋の薬学の詳細に研究し、西洋で使われる薬品の製法・効能・用法が玄真によって明らかにされました。フランス人のショメールの「家庭用百科事典」の翻訳にも尽力をしました。

▲西洋で使われる薬品の製法・効能・用法などが体系的に明らかにされた。

▲江戸時代のベストセラー医学書。

「内象銅版図」(仁木弘氏寄託)

文化5年(1808)に「医範提鋼」の付図として刊行された銅板解剖図。

宇田川榕庵(うだがわ ようあん)

▲宇田川榕庵肖像

(武田科学振興財団杏雨書屋蔵)

「植学啓原」は、わが国最初の植物学書です。
榕庵が西洋には植物学があることを知り、「花粉」「葯」「柱頭」などの言葉を作りながら著わしたものです。

巻末には顕微鏡観察による精密な植物図を洋書から引用して掲載しています。

玄真には子どもがなく大垣藩医江沢養樹の長男榕庵を養子に迎えました。彼らの活躍する時代になると、蘭学も医学だけではなく学問のあらゆる分野に広がり榕庵は、本格的な植物学や化学を日本に初めて紹介し、「日本における近代科学の生みの親」といわれています。
榕庵の化学書の中で用いた化学用語は酸素・窒素・炭素・水素などの元素名や酸化・還元など化学反応を表す言葉です。今でも良く使われているものがたくさんあります。このほかコーヒーの効能をまとめた小論温泉の成分の分析、西洋音楽の音律について調べたり、西洋スゴロクやトランプを模写したりしています。オランダ軍隊の軍服や武器・設備などの解説書を筆写したものなど榕庵が手がけた学問の領域の幅広さと奥深さでマルチな才能を備えた学者というイメージがあります。

▲「植学啓原」(3巻図1)は、植物を分類し、機能や構造を解剖学的な視点からとらえ記したもの。

▲「舎蜜開宗」(仁木弘氏寄託)

日本最初の本格的な化学書となった。

天保8年(1837)〜弘化4年(1847)刊。

▲オランダカルタ

榕庵がトランプを模写したもの。

▲お土産用のトランプ

▲「阿蘭陀王国軍装図譜」テウプケン著・1823年刊「オランダ軍隊関係者のための軍服・武器・設備等の解説書」の図を榕庵が筆写したもの。

以上の3人は俗に「宇田川家三代」と総称され、傑出した業績が今もなおたたえられています

宇田川興斎(うだがわ こうさい)

▲宇田川興斎肖像

(早稲田大学図書館蔵)

美濃大垣の医師飯沼慾斎の三男で、宇田川榕庵の養子。のち、蕃書和解御用手伝いとなり、箕作阮甫らと共に幕末の対米露交渉時に翻訳業で活躍。また、時勢を顧みて、英学に手をつけ「英吉利文典」を著したほか、「万宝新書」「山砲用法」など、訳書も多い。幕末から維新期の約10年間は、津山北町に移り住んでいる。

箕作阮甫(みつくり げんぽ)

▲箕作阮甫肖像

▲箕作阮甫愛用の羽織袴。

津山市生まれの津山市育ち。西新町に国指定史跡の箕作阮甫旧宅があります。津山の人にとっては良く知られている洋学者です。
彼は、翻訳などの著書を通じてヨーロッパ文化の導入に貢献したことです。「泰西名医彙講」は西欧の有名医学者の論文を翻訳し、編集したもので、医学の総合雑誌の初めといわれています。また蒸気機関の訳本を依頼され、国産第1号の蒸気船の試運転の成功させました。
幕末の外交交渉において活躍をしました。ぺリーが来航した時はアメリカ本の翻訳、ロシアのプチャーチンが渡来した時も文書の翻訳など深い関わりを持ったのは、豊富な海外知識を持ち、事務的な能力にすぐれ、責任感も強く、分もわきまえていたためでした。
研究や教育を通し広く洋学の確立に貢献しました。大学教授の第1号が箕作阮甫だともいわれているそうです

▲天保7年(1836)から刊行。阮甫が編集した医学の総合雑誌。

▲箕作阮甫の書簡

▲津山駅の銅像の型。

箕作省吾(みつくり しょうご)

箕作阮甫の門人で養子に迎えられ、阮甫の娘と結婚しました。
以前から地理学への関心が深く「新製輿地全図」という世界地図と、世界各州・諸国家こ形勢紹介した地誌「坤輿図識」を刊行しました。「新製輿地全図」は坂本竜馬がいつも眺めていたそうで、「坤輿図識」は井伊直弼、桂小五郎、吉田松陰など多くの人に読まれたそうです。

▲新製輿地全図

箕作秋坪(みつくり しゅうへい)

▲箕作秋坪肖像

阮甫の娘と結婚し養子縁組を結ぶ。
幕府が西欧各国へ派遣する使節団に随行し西欧の最新施設を視察しています。
明治維新後は英学塾「三叉学舎」を開設し、東郷平八郎、原敬、平沼淑郎(早稲田大学学長)、騏一郎兄弟をはじめ、福沢諭吉の慶応義塾とともに東京における洋学塾の双璧と称されています。

▲格致問答 二編
安政5年(1858)刊。ヨハネス・ボイスが著した物理学教科書を、秋坪が原文のまま翻刻・出版したもの。(中村勝男氏寄託)

▲泰西勧善訓蒙
明治6年(1873)〜9年(1876)刊。西洋の道徳。論理に関するフランス人ボンヌの著作を麟祥が翻訳したもので、明治初期の日本各地の学校で修身の教科書として用いられた。

箕作麟祥(みつくり りんしょう )

▲箕作麟祥肖像

阮甫の内孫で、省吾の子ども。孫でありながら養子となる。
経済学や法律学をフランスやイタリアで学び法制官僚として、民法や商法など多くの重要法律案の制定に貢献しました。
「権利」「義務」「動産」「不動産」などの法律用語は、彼による苦心の造語といわれています。明治20年学位制定にともない、翌年わが国初の法学博士の学位を受けました。

▲仏蘭西法律書 建国法

麟祥訳「仏蘭西法律書 憲法」の自筆稿本。この段階では「憲法」ではなく「建国法」という訳語が使われています。

菊地大麓(きくち だいろく )

▲菊池大麓肖像

文部次官・東京帝国大学総長・文部大臣・京都帝国大学総長・帝国学士院長・枢密顧問官など、主に教育行政における要職を歴任しています。

秋坪の二男として生まれ父の実家の姓を名乗る。
英国留学を命ぜられロンドンケンブリッジ大学に学び留学中は抜群の成績を収め「東洋の気男児」のニックネームを与えられたほどでした。帰国後東京大学理学部において日本人初の数学教授となりました。

▲大麓手びねりの茶碗
大麓が自ら作り、鳩山秀夫に嫁いだ娘千代子に贈ったもの。

▲愛用の懐中時計・万年筆
大麓が愛用した品で、いずれもアメリカ製。懐中時計は直径5.2cm。厚さ1.5cmで、製造番号などから1800年代後半に造られた輸入品と見られる。万年筆は長さ14.2cmで、ペン先が可動式で調節できる。


幼い時期から開成所に学び、元治元年(1864)わずか10歳で開成所の英学稽古世話心得を命じられます。

※素晴らしき津山洋学の足跡2004津山洋学資料館参照。