津山の洋学者達(2)

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久原洪哉(くはら こうさい)

▲久原洪哉肖像

(久原良躬氏寄託)

津田真道(つだ まみち) 西北条郡井村(現苫田郡鏡野町)の出身。石川元翠・広瀬元恭に蘭学を学び、津山藩医久原家の養子となる。また、華岡南洋(青洲の娘婿)に外科を学ぶ。明治3年(1870)には津山藩主婦人の乳癌の手術をした。長男躬弦は貢進生として大学南校に進み、京都大学教授および総長となった。なお、津山藩医久原家の初代良賢(甫雲)は、延宝5年(1677)にオランダ流外科免許状を授与されている。

▲乳癌図(山田信夫氏寄託)

華岡門人で宇田川興斎とともに、松平藩主夫人の乳癌摘出手術を行い成功させた。

久原躬弦(くはら みつる)

▲久原躬弦肖像

(久原良躬氏寄託)

津山藩医久原洪哉の長男として、津山二階町に生まれる。

東京大学理学部化学科を第一期生として卒業 。東京大学准教授となり、東京化学会の初代会長に推され、アメリカ留学し経て、京都帝国大学の第四代総長に就任し、理学博士の学位を受け、帝国学士院会員にもなった。

多くの優秀な人材を育成しながら、ベックマン転位の研究をライフワークとしながら、「立体化学要論」を出版。

▲愛用した眼鏡・手帳・文具類
京都大学の化学教室で受け継がれてきた躬弦の愛用品。平成15年に寄贈された。

原村玄貞(はらむら げんてい)

▲原村玄貞肖像

(原村玉樹氏寄託)

種痘事業の普及に貢献。

江戸で大槻俊斎に学び、郷里勝田郡古吉野村(今の勝田郡勝央町石生)で開業し、種痘普及に尽くした。

「解体新書」出版以降は江戸や大阪などの都会が「洋学」の中心となりました。

津山藩が排出した宇田川三代や箕作一族に刺激を受けて、美作地域では洋学を学ぶため都会を目指し、この中の多くは修行を終えた後、郷里へ帰って地域の人々の治療にあたったり、学塾を開いて子弟の教育に力を注いだりしています。

▲NATUURKUNDIG HANDBOEK

(原村玉樹氏寄託)オランダ語の物理学手引書を筆写したもの。

山田純造(やまだ じゅんぞう)

▲山田純造肖像

(山田信夫氏寄託)

種痘事業の普及に貢献。

幕末に大阪に出て、華岡南洋(華岡青洲の養子)について学んだ美作郡海田村(今の美作市海田)の山田純造は、種痘事業の普及にも貢献しました。

天然痘は、感染力が非常に強く、死亡率の高い病気で、不治の病として恐れられてきました。

嘉永2年7月、オランダ商館医モーニケが取り寄せた牛痘苗による種痘が成功。万延元年(1860)には、津山市二階町に種痘館が開設された。

▲「種痘伝習録」(山田信夫氏寄託)明治9年(1876)刊。

備前金川(今の御津町金川)で牛痘種痘を実施した難波抱節の長男立愿が著したもの。

仁木永祐(にき えいすけ)

▲仁木永祐肖像

(仁木弘氏寄託)

▲医療器具


東北条郡下津川村(現津山市)の出身で、東南条郡籾山村(現津山市籾保)の医師仁木隆助の養子となる。江戸に出て箕作阮甫・宇田川興斎に入門し、医学を修めた。

その後郷里に帰り医業の傍ら籾山黌を開き近所の子弟の教育にあたった。明治になって自由民権運動に参加している。

▲医療器具

▲医療器具

▲医療器具

津田真道(つだ まみち)

▲津田真道肖像

津山上之町で代々藩の料理を勤める家に生まれるが、幼少時から学問を好み、家業を嫌って江戸に出る。箕作阮甫・伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。藩書調書の教授手伝となり、オランダに留学、帰国後明治政府に出仕した。

また、明六社に参画し、明六雑誌に種々の論文を発表した。元老院議官を経て、衆議院議員・貴族院議員に当選、法学博士を授けられ男爵となった。

▲「泰西国法論」明治元年(1868)刊

牧穆中(まき ぼくちゅう)
真島郡久世原方(現真庭市)の医師牧主計の子。箕作阮甫に学び、一時浜松藩水野忠邦に仕えたが、辞して江戸で開業。のち横浜に移り、専ら翻訳を業とした。
小林令助(こばやし れいすけ)

勝南郡岡村(現勝田郡勝央町)の出身。江戸に遊学して杉田玄白に外科を、また京都の吉益南涯に内科を学び、郷里で開業。但馬出石藩医に取立てられた。

▲小林令助宛 杉田玄白書簡

医療上の指導や人生の教訓について懇切丁寧に記してあり、玄白の弟子を思う心情が伝わってきます。

石坂桑亀(いしざか そうき)
久米北条郡境村(現久米郡美咲町)の出身。初め吉益南涯・華岡鹿城(青洲の弟)の門に入り、ついで。シーボルトの鳴滝塾に学ぶ。のち福渡で開業、備中足守藩医となる。藩主に貢策して藩財政の回復に努め、寵遇を受けたが辞して倉敷に移り洋学を講じた。

石井宗謙(いしい そうけん)

真島郡旦土村(現真庭市)の出身。シーボルトの鳴滝塾に学び、「日本産昆虫図説」や「日本産蜘蛛図説」などを蘭訳し、シーボルトの日本研究を助けた。のち、郷里で医院を開き、勝山藩召抱えられたが、やがて藩を辞し、岡山下之町で開業。ついで江戸に移り藩書調所に出仕した。シーボルトの娘イネとの間に高子をもうけている。
※素晴らしき津山洋学の足跡2004津山洋学資料館参照。