【長法寺】あじさい祭と薄田泣菫と田岡嶺雲ゆかりの鐘

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▲あじさい祭【長法寺】2010.6.19(土)~20(日)午前9時~午後4時
阿弥陀堂(説教堂)
阿弥陀如来を本尊とし、脇侍に天台大師、伝教大師をおまつりしている。現在のお堂は弘化2年(1845年)西方にあったものを移し、阿弥陀堂兼客殿として再建す。
明治6年(1873年)津山城取り壊しの際贈られた。本丸御殿の鬼瓦、鯱(しゃち)、紫陽花(あじさい)の絵を描いた襖障子がある。2009年の紫陽花の様子はこちらから

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▲紫陽花

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▲紫陽花

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▲紫陽花

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津山城から贈られた紫陽花の絵を描いた襖障子
津山市需要文化財

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▲津山城から贈られた紫陽花の絵を描いた襖障子

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▲阿弥陀堂(説教堂)と屏風など

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▲写真左:阿弥陀堂(説教堂)と写真右:津山城から贈られた襖

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▲公孫樹下に立ちて【薄田泣菫】
"ああ日は彼方、伊太利の七つの岡の古跡や・・・・・・"に始まる明治の詩人泣菫の代表作「公孫樹下に立ちて」は三章100行にわたる人生を賛美した長歌であり、第一章末尾7行"ここには久米の皿山の・・・・"と第三章"ああ銀杏よ汝常磐樹の・・・・"12行が碑に刻まれている。薄田泣菫(1877~1945・倉敷市連島町に生まれ後毎日新聞学芸部長となる) 彼が京都にいた頃、世話になっていた竹内文女史が未亡人となって、故郷津山に帰っているのを訪問し、女学校を経営しつつ伝道に献身している姿に感動した泣菫が、滞在中、当山に立寄り大公孫樹を見て作ったもので、明治34年10月30日のことであります。(樹齢300年、高さ約30数米) 初冬に黄金色に紅葉するさまは壮観である。

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▲田岡嶺雲ゆかりの鐘
当山四十五世寂照僧正は明治33年、一生を終わるまでの25年間にわたって、毎日夜明けるまで百八つの鐘を鳴らし、当時の津山人はその鐘を聞いて旅立ったといわれる。明治29年津山中学教師として赴任した若き嶺雲(1870~1912、後に文芸評論家となる)は「月見草のような女」たい という名の薄幸の女性にめぐりあい一子をなしたが、二人は結ばれることのなく鐘の音に夏の夜の明け易きを怨み断腸の思いで津山を去ったが、一生涯鐘の音は彼の脳裏にしみ込んでいた。その鐘は戦時中供出、現在の鐘は昭和33年再鋳したものであります。(資料提供:長法寺)

長法寺
〒708-0885
岡山県津山市井口 246
TEL(0868)22-6436