M&Y記念館/いわさきちひろの履歴と美術館の紹介

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▲いわさきちひろポストカードより(許可済み)

作家履歴と美術館の紹介

★いわさきちひろ を楽しむならば・・・
ちひろ美術館・東京 
住  所 東京都練馬区下石神井4-7-2 TEL: 03-3995-0612
開館時間 10:00~17:00/休 館 日 月曜日(休日の場合はその翌日)

安曇野ちひろ美術館 
住  所 長野県北安曇郡松川村西原3358-24 TEL: 0261-62-0772
開館時間 9:00~17:00/休 館 日 第2・4水曜日(GW・8月は無休)

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▲いわさきちひろポストカードより(許可済み)

いわさきちひろ

1918 大正7年 12月15日、岩崎正勝・文江の長女として母の単身赴任先・福井県武生市(現・越前市)で生まれる。本名知弘。父・正勝は陸軍築城本部の建築技師、母・文江は女学校の教師(博物家事・理科)。
1919 大正8年 現在の東京都渋谷区道玄坂に移る。その後、渋谷の四反町(現・東)、向山町(恵比寿・南)に移る。  
1925 大正14年 渋谷町立長谷戸小学校に入学。  
1931 昭和6年 東京府立第六高等女学校(現・都立三田高校)に入学。
1933 昭和8年 目黒区中目黒に移る。岡田三郎助に師事。デッサン、油絵の勉強を始める。
1936 昭和11年 3月、府立第六高等女学校卒業。同補習科に入学。5月、朱葉会女子洋画展に入選。
1937 昭和12年 小田周洋について藤原行成流の書を習い始める。
1939 昭和14年 4月、婿養子を迎え結婚。6月、夫の勤務地である大連(中国遼寧省大連市)に渡る。
1941 昭和16年 2月、夫の自殺により帰国。書家をめざし、再び小田周洋のもとで書を学ぶ。 両親が中野区千代田町(現・本町付近)に家を建て、移る。
1942 昭和17年 中谷泰に師事、再び油絵を描き始める。  
1944 昭和19年 4月、女子義勇隊とともに満州・勃利(中国黒龍江省)へ渡る。夏、帰国。
1945 昭和20年 5月、空襲で東京・中野の家を焼失、長野県松本市(母の実家)に疎開、8月、終戦を迎える。秋、両親が長野県北安曇郡松川村(現・安曇野ちひろ美術館所在地)で開拓を始める。
1946 昭和21年 日本共産党に入党。春、上京。人民新聞の記者となる。日本共産党宣伝部・芸術学校に入る。赤松俊子(丸木俊)に師事。
1947 昭和22年 前衛美術会創立に参加。日本美術会、日本童画会のメンバーとなる。5月、初めての単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞ヶ関書房)の挿絵を描く。日本民主主義文化連盟(文連)の依頼により、紙芝居『お母さんの話』を描く。
1949 昭和24年 日本共産党の活動の中で松本善明と知り合う。紙芝居『お母さんの話』を教育紙芝居研究会より出版、翌年、文部大臣賞受賞。
1950 昭和25年 1月、松本善明と結婚。
1951 昭和26年 4月、長男・猛誕生。6月、息子を長野県松川村の両親に預ける。
1952 昭和27年 東京都練馬区下石神井(現・ちひろ美術館所在地)に家を建て、家族3人で暮らし始める。以後22年間、この地で制作活動を行う。  
1953 昭和28年 1月、父・正勝死去。  
1956 昭和31年 小学館児童文化賞受賞。初めての絵本の仕事として『ひとりでできるよ』(福音館書店)を描く。 1958 昭和33年 至光社の月刊絵雑誌「こどものせかい」に描き始める。紙芝居『お月さまいくつ』(童心社)を描き、翌年、厚生大臣賞受賞。  
1960 昭和35年 『あいうえおのほん』(童心社)を描き、翌年、サンケイ児童出版文化賞受賞。 日米新安保条約調印。
1963 昭和38年 雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙を描き始める。(~1974年8月号)。下石神井の自宅とアトリエを拡張し、夫・善明の両親と同居。6月、世界婦人会議参加のため、ソビエトを訪れる。  
1964 昭和39年 「童画ぐるーぷ車」を、安泰、遠藤てるよ、久米宏一、滝平二郎、東本つね、箕田源二郎らと結成。
1965 昭和40年 『りゅうのめのなみだ』(偕成社)『おはなしアンデアルセン』(童心社)を刊行。
1966 昭和41年 母・文江とヨーロッパ旅行。帰国後、アンデルセンの『絵のない絵本』(童心社)を描く。長野県の黒姫高原に山荘を建て、以後毎年ここで絵本制作を行う。『おやゆびひめ』(ひかりのくに昭和出版・現在は講談社)『つるのおんがえし』(偕成社)を刊行。  
1967 昭和42年 『わたしがちいさかったときに』(童心社)を描く。夫・善明が衆議院議員となる。『しらゆきひめ』(集英社・現在は講談社)『りこうなおきさき』(世界出版社・現在は講談社)『にんぎょひめ』『うらしまたろう』(ともに偕成社)を刊行。

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▲いわさきちひろポストカードより(許可済み)
1968 昭和43年 絵で展開する絵本を試みた最初の作品『あめのひのおるすばん』(至光社)を描く。以後、至光社で武市八十雄とともに意欲的に絵本を制作する。自伝的絵本『わたしのえほん』(みどり書房・現在は新日本出版社)を描く。『はくちょうのみずうみ』(世界出版社・現在は講談社)『あかいふうせん』『あかいくつ』(ともに偕成社)『愛かぎりなく‐デカブリストの妻抄』(童心社)を刊行。  
1969 昭和44年 『おにたのぼうし』(ポプラ社)『あかちゃんのくるひ』(至光社)『花の童話集』(童心社)などを描く。『ふたりのぶとうかい』(学習研究社・現在は講談社)『青い鳥』(世界文化社)『鯉のいる村』(新日本出版社)を刊行。  
1970 昭和45年 パステルで描いた絵本『となりにきたこ』(至光社)を描く。現存するパステル画のほとんどは、この年に描く。『あかちゃんのくるひ』(至光社)『おふろでちゃぷちゃぷ』『もしもしおでんわ』『万葉のうた』(ともに童心社)『にじのみずうみ』(偕成社)を刊行。「ベトナムの子どもを支援する会」主催の反戦野外展に「世界中のこどもみんなに平和としあわせを」を出品。前年脳血栓で倒れた母・文江を、石神井の自宅にひきとる。
1971 昭和46年 『ことりのくるひ』(至光社)を描き、1973年ボローニャ国際児童図書展にてグラフィック賞を受賞。この頃から十二指腸潰瘍をわずらう。『となりにきたこ』(至光社)『あかちゃんのうた』『たけくらべ』(ともに童心社)『ゆきごんのおくりもの』(新日本出版社)を刊行。  
1972 昭和47年 『ひさの星』(岩崎書店)を刊行、『ゆきのひのたんじょうび』(至光社)『母さんはおるす』(新日本出版社)『あかまんまとうげ』などを描き、 『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)を描き始める。夏、代々木病院に入院。
1973 昭和48年 3月、静養のためハワイ旅行。『ぽちのきたうみ』(至光社) 『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店/翌年ライプチヒ国際書籍展銅賞受賞)を完成させ出版。雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙絵をまとめた『こどものしあわせ画集』(岩崎書店)出版。秋、ガンのため代々木病院に入院。小康を得て退院。
1974 昭和49年 3月、病状が悪化し、再入院。6月、あかちゃんの絵を描き絶筆となる。8月8日、原発性肝ガンのため死去。  
1975 昭和50年 未完のまま遺作となった『赤い蝋燭と人魚』(童心社)を刊行。  
1977 昭和52年 9月、練馬区石神井の自宅跡地に、いわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)開館。  
1997 平成9年 4月、長野県北安曇郡松川村に、安曇野ちひろ美術館開館。