睨み合い(にらみ合い)の松)【津山市院庄地区】

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▲にらみ合いの松は院庄字石守の田圃中にある。(2011.4.9)

墓趾は南北に分かれてその上に植えられている古松が当時を物語るかのようである。

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▲睨合の松
 慶長8年(1603)、森忠政が信州川中島から美作18万7500石の太守として入封し院庄に居を構え、元宇喜多氏の支城であった院庄構城の修築にかかった時のことである。森家の臣に井戸宇右衛門という者があった。人となり剛直で父祖以来森家に仕え歴戦の武功を以って聞え禄4千石の重臣であったが、平素名護屋九右衛門と不仲であった。九右衛門は森忠政の室の実弟で、その家は織田家とも関係のある尾張の旧家である。九右衛門は初め山三郎といい会津の浦生氏郷に仕えていたが氏郷の死後会津を辞して、姉の縁故により忠政に召し抱えられ禄3百石で小姓役を勤めていた。才智に富み世故に長じていたので忠政に寵遇されたが、宇右衛門等保守的な旧臣との間は悪く反目していた。
 忠政は美作に入封するに及んで宇右衛門を誅殺しようとして刺士を選ぶに当り、名護屋九右衛門が進んでその任に当たりたいと願い出たが忠政は許さなかった。しかし再三請うので遂に刀を授け趨かしめた。
 この日宇右衛門は院庄に在って築城の方図を聞き同僚数名と相談をしていた。そこへ名護屋が入るなり「君命なり」と言って井戸に切りつけたが、流石に宇右衛門は千軍万馬の勇士だけあって微傷を負っただけで、「汝何をか為す」と振り向きざま一刀のもとに名護屋を斬り伏せた。
 しかし名護屋が「君命なり」と言ったので上意討ちである。作陽誌には「傍人群集して遂に井戸を殺す」とあるから、周囲にいた人が寄ってたかって宇右衛門を討ったのであろう。宇右衛門の弟甚三郎、惣十郎の2人は差し向けられた刺客によって討たれている。
 一説に名護屋九右衛門が山三郎と言って流浪してた頃に出雲のお国とのロマンが伝えられているが、事実は不明である。ただ九右衛門に山三郎という遺児があって、後に加賀の前田家の家臣となった那古屋蔵人が山三郎の後身と言われる。
 この事件があってから後、忠政は院庄築城を中止して現在の津山城を築いたのである。 
 井戸兄弟の墓は国道の南側に、名護屋の墓は北側に葬り、何れも墓上に松を植えたのが今に至るまで「睨み合いの松」と呼ばれ、当時の惨劇を物語っている。初めは国道の左右に墓があったが、通行人に対して、しばしば奇怪な事があるというので、明暦年中(1655)、現在のように国道を北に変えたといわれる。(院庄公民館創立10周年記念「院庄誌」より)