津山人「全日空を創った 美土路昌一氏」

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津山市一宮の本光寺参道の前の小路を上がってゆくと美土路昌一氏の墓があり、横には碑が建っている。右上には「言論自由の語は之を守る為め死を辞せざる者のみ言い得る言葉なり」とあり、下方には「この夏は越せそうも無き米寿かな」とある。後者は死の三日前の絶筆である。

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↑2015年12月7日現在は先祖代々の墓地で静かに眠っておられます。

(美土路昌一氏は明治19年7月16日中山神社の社家の一軒で生まれた。)

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美土路家(現津山高校100周年記念館)の前の津高の門を入ってすぐ、よく伸びた二本の松がある。これは、はじめて空を飛んだライト兄弟の飛行場の松の種をもらって、母校の庭に寄付して植えたもの。

よく言っていた言葉「一歩退って人に接せよ」、「何ごとも、まず相手のことを考えよ」、「水流先を争わず」文:津山市文化協会「津山の人物」より)


 「現在窮乏、将来有望」これは津山市出身で市の名誉市民 美土(みど)路(ろ) 昌一(ますいち)氏が全日本空輸(ANA)の前身である「日本ヘリコプター輸送株式会社」創立時に掲げたスローガンです。

1886年(明治19年)、苫田郡一宮村(現:津山市一宮)で生まれた美土路 昌一氏は、旧制津山中学を卒業後、文学を志し早稲田大学文学に入学されました。苦学の中、文学の道を断念され大学を中退後、朝日新聞社に入社されました。

 入社後は第一次世界大戦(青島戦)に従軍されたほか、上海、ニューヨーク特派員を経た後、編集局長として神風号による東京‐ロンドン間の記録飛行を成功に導くなどの活躍をされました。
 その後、日本は戦火の渦に突入しますが、戦中、編集局長、常務取締役と朝日新聞社の要職にあった美土路氏は言論の弾圧にさらされます。

★晩年、美土路氏は当時をこう振り返っています。
 「顧みて自分の在職中約40年の最後の10年間は、実にこれらの桎梏(しっこく)と業火の苦しみの両面であった。今になって往時を振り返ってみると、元より軍ファッショの国を誤ったことを痛嘆久しうするが、この非常の時に、全新聞記者が平時に於て大声叱呼した言論自由の烽火(のろし)を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼等を誤らしめたその無気力、生きんが為めの売節の罪を見逃してはならぬ、そしてその群の中に自らも首脳部の一人としてありながら、死支度も白装束も役に立たず、唯碌々としてその間何の働きも出来ず、今徒らに軍の横暴のみを責めている自分に対し、深く反省し自責の念に堪えないのである。言論死して国遂に亡ぶ、死を賭しても堅持すべきは言論の自由である」(『朝日新聞社史-大正・昭和戦前編より』

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<写真:朝日新聞社岡山支局(壁に美土路氏の言葉が掲示されている)>また、同じ言葉は筆塚にも刻まれています。


 終戦前に朝日新聞を退社し、郷里の津山で農業を通じて人材を育成すべく市内大田に開拓農場を企画しましたが、朝日新聞航空部時代の部下に懇願され、敗戦で職を失われた航空関係者の救済組織「興民社」の会長に就任されます。そして、戦後長く外国人パイロットに牛耳られていた日本の空を日本人の手に取り戻すべく、純民間による航空会社設立をめざし奮闘され、昭和27年に「日本ヘリコプター輸送株式会社」を設立、代表取締役に就任されています。

 設立の際に、「現在窮乏、将来有望」という言葉で社員を鼓舞するとともに、三つの経営理念『①高潔な企業、②権威に屈することのない、主体性を持った企業、③独立独歩できる企業』を掲げ、全社員一丸となり幾多の困難を乗り越え、今日の全日本空輸の礎を築かれました。
「現在窮乏、将来有望」の言葉は、現在も全日空の大会議室に掲げられており、社員の支えとなっています。

全日空を退社後、内紛騒動が起こった朝日新聞社から請われて昭和39年社長に就任し、融和に尽力されました。昭和42年に社長を退任された後、郷里への深い愛情を胸に昭和48年5月11日、静かに逝去されました。

<津山市に残る足跡>
 美土路氏は、津山市に様々な貢献をしていただいています。津山総合体育館の南側にある公園にセスナ機とヘリコプターがあったことを覚えておられる方は多いと思いますが、これは美土路氏により設置が実現したものです。また、現在津山高校100周年記念館となっている土地は氏が疎開されていた頃の居宅跡であり、津山文化センターの前にある芸術家 本郷新氏による像「朝」も氏のご尽力で設置されたものです。

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<写真左:津山市総合体育館南側の児童公園に設置されていたセスナ機 朝風号>

<写真右:津山文化センター前にある「朝」の像 題字は美土路氏によるもの>

<現在窮乏 将来有望>
 現在の厳しい経済・社会状況により、我々は大きな不安を抱えています。しかしながら、現在より更に厳しい時代に、窮乏に耐え、人を信じ未来を信じ、熱い思いで未来を創造された美土路氏の偉業から、私たちは多くを学ぶことができます。
 市内生家の近くの丘に設けられた墓石と筆塚。心地よい風が吹く丘の上で、今日も美土路氏は愛する故郷を見守っておられます。


■今回の紹介にあたって
 美土路 昌一氏はご自身が褒章や顕彰を固辞されてきたこともあり、郷里の津山でも知る人は少なくなっています。
 原稿作成に際して、美土路氏の足跡を辿るごとに、郷里の偉大な先輩を是非多くの方々に知っていただきたいと思うに至りました。
 このホームページにより、多くの方が「美土路 昌一」氏の遺徳にふれ、地域を見つめ直すきっかけになればと思います。(文:沼 泰弘さん)