堀坂の「釜の口用水」トンネル

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▲釜の口暗渠(2012.1.7取材)
 釜の口暗渠は、掘坂上の稲荷山の下を暗渠で掘り抜き、釜の口井堰から加茂川の水を引いて水田の54町歩に潅漑した水の隧道です。これは作北の水の青の洞門(勝田郡誌)といわれています。文政5年(1882年)2月に起工し翌年の3月に完成したもので、その延長は54年間(約100メートル)幅7尺(口径約2メートル)高さ9尺(一部)の規模を有し、それまで北へ水路を掘って水を逆流させて潅漑水にあてていました。工事完成により掘坂水田が、干害の憂いから救われて増産の役割を果たしました。
 建設当時、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)の支配下にあった堀坂は、度重なる洪水により井堰の流失に悩まされており、山本吉次郎、曽根興右衛門、左子藤兵衛、曽根源吉、杉田健次郎、本郷甚臓らが近長の名代官亀田清助に請い、銀26貫匁を借り受け金を用意し、代官は和算の大家であった田熊の中村周介に相談しました。
 周介は難問解決のため岩山を利用した暗渠用水を設けることを思いつき、若い甥の中村嘉芽市(17歳)に工事の測量設計をすべて託しました。岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により通水したものです。(文:津山市 堀坂町内会発行 わがまちの歴史より)

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釜の口井堰から加茂川の水を引いた。
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取水口
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稲荷山の暗渠入口。(妙原釜の口入口附近)
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稲荷山の下を暗渠で掘りぬいた。(堀坂の出口附近)
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各家の生活用水として使用されていたなごりが今でも残っている。
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 延長約100mの大暗渠工事は「穿口を切ること方6尺、石工を用いること3990人、役夫2938人」もって、文政5年(1822年)約1年がかりで完成した。両方からの岩盤をくり抜いた誤差は、ごくわずかであった。嘉芽市は、その後江戸に上がってさらに勉学に励み、碑文に見られる通り、田熊の算仙として名を馳せた。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)