田熊 参道石碑群(3) 神變大菩薩等修験道碑

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田熊 参道石碑群(3) 神變(しんぺん)大菩薩(だいぼさつ)等修験道碑(とうしゅげんどうひ) 
 神事場南の石碑群の中で、目立って大きいのが、東側基壇上の2つの修験道碑である。この石碑は、本来もう少し東に位置していたのが、昭和の初め、家の建築に際して現在地に移されたそうで、文政6年(1823年)のものである。石碑には次のように刻まれている。

(梵字)神變大菩薩
文政癸未年 願主 福島譽次
村々 惣講中

(梵字) 大月如来
(※梵字は○印の中にある) 
 神變大菩薩というのは、修験道の開祖、役行者(役小角)の諡名である。
 寛政11年(1799年)の役小角一千百年御遠忌にあたり、光格天皇から時の聖護院にこの諡号が与えられ、以後、この別名で祀られることが多くなった。(2012.1取材)

 役小角は、奈良時代にはすでに傑出した呪術者・修験者として伝承化され、やがて大峰霊場が作られると、修験道の理想とする修行者、役行者として崇められた。江戸時代には、数多くの伝記本が作られ、追善の法要や供養が盛んに行われ、その御利益を得ようと、こうした石碑が建立されるようになった。
 大日如来は一般的だが、いま一つの石碑、大月如来は珍しい供養碑である。山の神秘な霊気に触れ、呪術力を体得する修験道は、自然の日・月を深く崇拝した。日は太陽(日輪)のことで、太陽の本地は、大日如来・天照大神・観音菩薩とされ、信仰対象とした。早朝の日の出の際には、太陽を祀る日待ちの祈りを捧げた。
月も同じように、信仰対象として祀られた。峰入り修行の際は、月輪観がなされたり、折々の月の出を拝する月待ちの祈りもあった。満月は阿弥陀、七夜は観音、下弦は勢至とみなして崇拝対象とし、経文を唱え、除災招福をいのった。大月如来は、この祈りの供養碑と見なされる。

 福井にも見られたが、こうした修験道の石碑が、このあたりあちこちに見られるということは、作州修験という言葉があるほど、修験山伏の活躍が活発であったことを表している。森藩の寛永11年(1634年)にして、美作国で神官僧侶562人に対し、修験者127人もいた記録があり、幕末には小字に一人平均いたのではないかと、想定されている。
 
 隆盛の背景として、手ごろな後山(東粟倉)の登拝修行地があり、今なお続いているように、各地に後山の山上講という組織ができていたこと、真言系山伏の保護者でもある真言寺院が、作州では圧倒的勢力を持っていたこと、天台系五流山伏も真言山伏に対抗して、競り合うように政権の拡張に努めたことなどが挙げられ、作州修験王国をつくっていた。(「美作の民俗」松岡実ー修験の特色)
  
 福島譽次がどのような修験者であったか不明だが、当時修験者は、山上登拝の先達、柴灯護摩の祭りで活躍するほか、村にあっては、求めに応じて病気・災難・方直し・地鎮祭・金神除けの祈祷のほか、その博学からして、薬草治療、家の間取り、さらには縁談、子の名付けなど村の生活の指導的役割を果たし、村の知識階級としての活躍をしたと言われている。
  
 なお観音経は、観世音菩薩の功徳を説いた経文で、修験者によってしばしば唱えられている。三千巻供養は、その経文を三千回書写した証しを供養塔に刻んだものと見なされ、その熱心な修験信仰ぶりを伺い知ることができる。(文:宮澤靖彦 編著 広野の歴史散歩より)