広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑

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広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑
 広野保育園の南側で、南北に通じる市道福井線と、東西の旧真加部街道の接点に位置する道ベりに、地元の人が言う六部の碑が祀られている。
 六部の碑とは、正しくは全国六十六部廻国供養塔のことである。世の平穏や民生の安定を願って、全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて廻る遍歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に大衆化して、村々を廻って戸口毎に拝み米や銭の御布施をもらって歩く、遍路姿の在家の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは廻国道中に村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりに、こうした供養塔を建立した。今日に残るあちこちの供養塔に六十六部の記名がある所以だが、近くでは、清瀧寺仁王門そばの廻国供養塔とおなじ類いである。

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 この供養塔は、人の背丈に近い大きい川石を利用していて、文字の彫りが浅く風化して文字が読みづらくなっている。記録は、次の通りである。
(塔) 天下泰平 相州大住郡千村 行者忠兵衛
(梵字) 奉納大乗妙典六十六部
日月清明 願主 相州大住郡 源八
(台座) 
和州 教心   昭州 惣吉
雲州 勝三郎  根州 吉蔵
饌州 柳左エ門    宣平
殞州 直蔵   上州 勝三
豊州 来蔵      同行
(豊岡孝次氏判読による)
 相州とは相模の国(神奈川県)のことであり、台座の9人は、和州(大和国)=奈良県、雲州(出雲)=島根県、饌州(泉州)=大阪府、殞州(因州)=鳥取県、豊州(豊前豊後)=大分県、昭州(安芸)=広島県、根州(紀州根来?)=和歌山県?、上州(上野)=群馬県と見なされる。
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 この全国にわたった同行者や名前から考えても、清瀧寺のとは異なって、大衆化した時代の六部の供養塔であることが分かる。
 また、すぐ隣には、哀れにも廻国道中にこの行者忠兵衛が亡くなったため、霊を弔う地蔵菩薩が祀られている。
速入一如信士霊位  (梵字) 文政十一戌子八月拾八日
相州大住郡千村 俗名 忠兵衛  福井御宿 柳治 
 このことから、文政11年(1831年)の供養塔であることがうかがえる。
 当時はお陰参りが流行し、石仏などもあちこちに作られており、江戸時代末期の民間信仰が最も盛んな時期を代表している供養塔と言えよう。なお、ここには、当時まだこの街道の通行が盛んであった証として、昭和2年(1927年)8月に設けられた福井村の道標が、存在していることも併せて書き留めておきたい。