竹本山 医王寺(津山市加茂町青柳)

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 当社は青柳にあって、竹本山 医王寺と号し醍醐派真言宗に属する当山派山伏寺である。本尊は大日如来である。

 開山は不明である。もと字寺山にあったが、文永二十一年(1274)に僧聖覚房が中腹に移建し、さらに天文二十一年(1552)に矢筈城主草苅衡継が現在地に移したと伝えられる(『苫田郡誌』)。本尊大日如来は、像長一尺の一本造りである。寺の行事は、正月二十八日には、部落ひとびとが本堂で大師講を行っている。2012.9.20取材(文:加茂町史より)

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医王寺縁記
當寺は、竹本山医王寺と称し真言宗醍醐派に属し、当山派の修験寺院である。天平年中(西暦七三二年頃)僧行基菩薩当所に留杖し、大日如来を刻み堂塔を建立、天笠山弥仙堂と呼び最初矢羽頭山上に在りしという(現在の八筈山)その後、領主の攻防の争い等により衰退す。
文永十年八月(一二七三)僧聖学房時の領主秀治の願に依り同山中腹に再建なし領主の祈願寺として二百有余年お経て、天文元年(一五三六)高山城築城成す時の高山城主草苅衡継これを城より西方、白虎の備えの守りとして、銅分炉山中腹柳之段(現在寺山上寺)へ天文五年八月再建する、しかし再び野火により天文二十一年三月(一五五二)全山総て焼失し、同年八月快泉法印現在の地へ建立。爾来当山派修験、神仏習合の寺院として青柳神社別当おも勤め栄る密教系の寺院であったが、明治元年(一八六八)神仏分離令に加えて廃佛毀釈に合い解体せられ、その上明治五年(一八七二)修験道廃止令により衰退して、その寺院の姿の一部を止め現在に至っている。(情報提供:金龍寺)
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本堂の中と案内くださった金龍寺の住職
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山の上にあった石塔を降ろしてきたもので、すぐ近くの山の中腹に寺の敷地がある。



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正面中ほど(竹薮)に本堂があり左手には庫裏があったそうです。庭池の跡もあります。
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敷地内には歴代住職のお墓があります。 写真右は裏山へ通ずる道があったそうです。