岩間山 本山寺(美咲町)法然上人ゆかりの地

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天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)

 大宝元年(701)頼観上人の創建で、本尊は観世音菩薩である。当初は南方の山頂に在ったが、天永元年(1110)現在地に移り、大いに発展して百廿十坊と言われた。
古来、山岳仏教の道場として、又、庶民信仰の霊地として栄えた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)である。降って江戸時代になると、津山藩の祈願所として、尊ばれ、又、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であった。山内寺院のうち、遍照院・仏性院・梅元院の三院が院内頭であったが、今では皆、合併して本坊一ヶ寺となった。現在の境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えている。
国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)
県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)
美咲町教育委員会 (案内板より)

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本山寺に到着すると、すぐ見えるのは仁王門(江戸時代1686年)(県指定文化財)です。(殿様が馬に乗って登られるので広い階段になっているそうで、馬階段ともいうそうです。)

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仁王様

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山額と沢山のお地蔵様と阿弥陀堂

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長屋門(県指定文化財)

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長屋門(県指定文化財)

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本山寺の長屋門附近                表門

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地蔵堂                         庫裏    

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庫裏と境内

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境内の紅葉がすごくきれいです。

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御霊屋(おたまや)の前庭の池

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御霊屋(おたまや)の前庭

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御霊屋(おたまや)(江戸時代1652年)(県指定文化財)

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御霊屋(おたまや)(県指定文化財)

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徳川三代、四代のお位牌が祀ってあります。

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御霊屋(おたまや)(県指定文化財)

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▲聖天堂(聖天堂の前にある木は、法然上人の父親が参る時についた杖を逆さに挿したら、芽が出て桜の花が咲いた事から「逆木櫻」といわれています。

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▲山王堂

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本堂(御本尊は十一面観音菩薩:南北朝時代1350年)(国指定文化財)

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本堂(国指定文化財)

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鐘楼(県指定文化財)

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常行堂(じょうぎょうどう)(室町時代1519年)(県指定文化財)

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常行堂(じょうぎょうどう)(県指定文化財)

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三重塔(江戸時代1652年)(国指定文化財)

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四方の扉の紋様が異なっています。

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ここをお守りしているのはさるだそうです。

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このお地蔵様は子供を連れて参れば頭がよくなり、大人はボケないそうです。ここの「宝篋印塔」は国指定文化財です。

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▲観音様

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本山寺の境内中にシャクナゲの木がいっぱい植えられています。


歴史と現状
 当山は今から1,300年の昔、役の行者・小角が修行した跡といわれ、大宝元年(701)佐伯有頼がこの山で狩りをして奇瑞を感じ、出家して頼観と号し、寺を建てて新山寺と名づけた。今、金毘羅神をまつる東南の山頂である。それから五十余年後、唐の高僧・鑑真が来て、名を本山寺と改め、大いに伽藍を興したという。
 平安時代も盛りをすぎたころ、戦乱のため荒廃したが、そのころこの山へ狩りをした、久米師眞が霊瑞を見て出家し、名を眞道と改めて、専ら本尊に仕えていた。同じころに弓削師古が材木を求めて、この山に霊木を発見し、出家して古道といい、仏師にたのんでこの霊木で十一面観音像を刻ませた。以後、眞道と古道の両師が協力して復興に努め、天永元年(1100)現在地に移転、本堂・講堂・三重塔・多宝塔・鐘楼・鎮守社・仁王門、等々を建てた。
 これから寺は大いに栄えて、百二十坊と称せられた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(久米南町・誕生時)の漆間時国夫妻が、参籠して嗣子を授け給えと折り、願いがかなって生まれた勢至丸が、後に出家して比叡山で仏教の奥義を究め、浄土宗の開祖・円光大師法然上人(源空)となったのは、有名な伝説である。
 観応元年(1350)現・本堂が建てられた。柱で五間四面(実測・七間半)、当時の流行の和様・唐様折衷様式で、県下に稀にみる古建築である。
 永正16年(1519)今の常行堂が建てられたが、永禄5年(1562)には山陰の尼子晴久の軍が来襲して、本堂などに相当の被害があり、仁王門は破壊されたが、篤信の人々によりまもなく修復・復興されたのは幸いであった。
 江戸時代の初め慶長9年(1604)、森忠政が津山で城を築くとき、当時住職常俊は地鎮の祈祷を修し、忠政と親しく交わった。
 次に盛俊が継ぎ、その次には東叡山寛永寺から賢海を迎えた。森候の帰依はますます厚く、承応元年(1652)三重塔が再建され、三代将軍(後には四代将軍も)を祀る御霊屋も造られて、寺領百十一石の他に、供料二百石(後には四百石)を寄せ、古来の境内地(凡そ二百町歩)も、そのまま認められた。津山藩主は毎年一回、このおたまやへ参詣される習わしであった。
 貞享3年(1686)山之上村(柵原町高城)の石戸氏一門の奇進により、現在の仁王門が建てられ、仁王尊が奉安された(永禄7年再建の南の仁王門は、その後焼失)。
 森家時代には、美作の天台宗寺院の触れ頭であった。
 ところが元禄の10年(1697)、森家は断絶し、所領は幕府に没収されたので、寺禄を失って困窮した寺は、住職寛海が江戸へ出向き、寛永寺を通じて嘆願し、幕府から年七十石を給せられることになり、まもなく松平藩になってからも、これが続けられたが、経済上の大打撃であり、三重塔の棟札には四十八坊の名を列ねるのに、その後しだいに減少して、幕末には本坊以外、院内頭の遍照院・仏性院・梅元院だけになった。享保18年(1733)鎮守社たる山王権現堂を、今の様式に改築。天明2年(1782)山之上村の可児幸右衛門翁の一建立で、現在の鐘楼が再建された。天保12年(1841)に本坊の庫裡と客殿、長屋を焼失し、弘化2年(1845)に再建した。
 元治元年(1864)に現存の地蔵堂を建てた。明治維新で寺禄を失ったため、仏性院・梅元院を廃絶し、本坊と遍照院のみとなった。
 しかも明治9年には「上地」と称して、境内地(主に山林)のうち百二十六町歩余りを没収され、経営はいよいよ困難になった。大正12年(1923)、本堂が特別保護建造物(現・重要文化財)に指定され、昭和6・7年解体修理が行われて面目を一新。昭和18年に遍照院を合併し、一山一ヶ寺となった。
 戦後の農地改革で田畑宅地・六町三反を失ったが、復興の努力を重ね、昭和30年から植林を始めて、既に二十数町歩に桧を植栽した。38・9年度には県下の寺院では初めて防災施設を備え、参道もおいおい改良されてきた。三重塔を始め主要な建造物は、戦後、国・県の重要文化財に指定さて、次第に世間の注目を浴びつつあるが、なお修理を要するものも少なくない。
 以上が当・本山寺の長い歴史の極く概略である。先記のとおり幾度か栄枯盛衰の波に洗われたが、幸いにして、千余年前と伝える本尊々像を始め、660余年前の本堂など、由緒深い七堂伽藍を今に伝えて、岡山県きっての古建築集団、文化財の宝庫と称せられるのは、本尊御偉徳のもと、歴代の住侶たちと幾多の檀信徒各位の篤信協力の賜物であり、これを範としていよいよ法灯を輝かし、末長くこの霊場を護持活用せねばならないと、念願して止まないしだいである。

2012年11月12日取材(資料提供:岩間山本山寺 美咲町定宗403 TEL0868-62-1050)