福井 源平の古戦場を語る新宮城址

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 福井の南部、土居の公会堂付近に、真宮神社の鳥居や花壇があり、その地点より山手へしばらく上がると、海抜204mの平坦な山頂部に達する。ここに福井と新田にまたがって古い城跡があり、新宮城跡と言われている。展望のきく南側は、広戸川に面して急峻な岩肌が切り立っており、城としては天然の要塞を思わせるものがある。
 山頂の平坦地は、南北およそ40間(約70m)・東西180間(約200m)の広さがあり、中間に長さ40間余の土塁らしきものが残されている。かっては、土塁の西側に建物の本拠があり、広い東側は、城郭内の広場や城兵糧食の耕地であったと言われている。この新宮城跡については、源平のころからの古い歴史をもつだけに詳細不明で、城主についても異説があり、名称すら新宮か真宮か判然としない面があり「東作誌」等でも謎に包まれた記述がされている。
 しかし一般にはあまり知られていないが、明治末年に書かれた新宮城の詳しい伝記本が存在している。安藤十朗氏著「霊夢 神宮山木下伝記」(和綴じ全5巻付録1巻 福井 安藤六衛氏蔵)がそれである。
 平安後期に平氏一門の木下氏が拠点として築城した様子から、源平合戦で滅亡するまでの経過を、年代をふまえて克明に記録した伝記である。2012.6~12月取材

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夏の新宮城址
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冬福井神社から見る新宮城址
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 この木下伝記は、夜な夜な現れてくる語り部らしき異人、勝田太郎の話を聞き書きしたとあり、新宮城主となった木下一族について、初代道胤な数奇な運命やその子孫の盛哀落城に至るまでの様子を、教訓を交えながら詳しく記述している。基本的に時代考証もきちんとしており、その後の現存している地勢、家名、神社、仏像などと密接なつながりがあり、何らかの郷土史料に基づく伝記と思われる。史実についての検証は今後にゆだねられるところであるが、大筋は「美作古城史」の記載ともほぼ一致している。

 平氏ゆかりの木下道胤がこの地を本拠とし、その子道衝のときの長久2年(1042年)、城北の丘に牛頭天王を祀り、城名を新宮城と唱えた。平氏一門の勢力として数代栄えたが、道光(異説=道元)の代、元暦元年(1184年)、源平の勢力争いに巻き込まれた。平家討伐軍と戦いを交え、最後には義経方の侍大将梶原景時(後、美作の守護)の軍勢に攻められて、激戦の末落城したという概略が伝記に伺える。

 一説に、新田に義経の地名があり、義経大明神の神社もこのときの陣場にゆかりの名称とも言われていが、義経の美作入りに否定説もある。その後も新宮城跡をめぐっては、南北朝の動乱の時期、新田氏が再興をはかったが、1360年、山名勢が赤松勢を攻め時の勢力争いの拠点となって、新田義介勢(1500人の規模)の抵抗も空しく落城した。また、戦国末期には、宇喜多の美作侵攻に反抗した在地勢力が、新宮城跡周辺を拠点に抵抗し、宇喜多勢とまた戦いがあったとのことであり、今に伝承や古戦場の跡をとどめている。 (文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)