勝部神社(津山市勝部)

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勝部神社について
一(名前について)
昔は様々な仕事に其の職種ごとに名前があり、住む地域も決められていました。今もその名残として、それらの仕事に従事していた地域の名前が残されています。(綾部、倭部(志戸部)等
「勝部」というのは、勾玉、玉、鏡など研磨する仕事をさし、一説には様々な職能集団の長(統括者)的役割を担うとも言われています。
「勝」とは、磨くという意味があり。この地域には、そういう職種の人がいた場所であり
「五十年程前には、東地区の池付近で水晶を取った事がある」と言う方も居られ、産出もしていたのではと考えられます。

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二(由緒沿革・1)
勝部には、王太郎神明社、義滝(義時)大明神、國司大明社、荒神社、妙見社、松尾荒神社、菅ノ宮とありましたが、明治三十九年の一村一社制により、合祀され今のように、勝部神社となりました。
 作陽誌等に記されているなかに、國司尾荒神の古屋敷跡より、神鏡が穿出され承平三年(934年)の記名があった。との事、創祀は、古いのですが詳細は残っていません。戦渦に遭い社頭衰退の時期もあり、作陽誌神社史等により明記されている事をもとに合祀される以前の各社の歴史を紐解きます。

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二(由緒沿革・2)
 王太郎神明宮について1
勝部の氏神、王太郎様は大照様と記された時もあり天照皇大神の事とも、天照大神の孫邇々杵尊の子、彦火々出見神の事とも言われています。平治年中(1155年頃)社頭衰えいる頃、源頼朝公石橋山の戦いの時王太郎と言う商夫より左折の烏帽子を授けられる。源氏再興後、恩に報いんと諸州を尋ねるが王太郎という者なく神の化現で有ることを知る。
社頭建立と十二月田を寄附し四時の祭を営む。今も田圃の中に地名として残っています。

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二(由緒沿革・3)
王太郎神明宮について2  
天文二年(1533年)尼子浦上の戦いで、苫田の郷民は浦上に加担し一宮中山神社に籠り戦う。勢い盛んであったが、王太郎神明は勝部の氏人に一宮を離れ帰るよう告げる。その夜尼子中山神社の神に勝利の後は再建を約束し焼き討ちを決行一揆ことごとく灰燼となる。勝部の氏人は一人も火災に合わず。尼子後に佐々木修理大夫晴久となり、中山神社の再建とともに当社へ寄進する。

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二(由緒沿革・4)
 義時大明神について
承久の変(1221年)で勝部領主大内俊行は北條義時と戦い破れ勝部に帰り山で自害する。其の跡に寺(大帯寺)を建て俊行の子助俊法師に寺をまかせる。義時大明神は其の時北條泰時が父義時を祭り、守護神とするように設けたと伝わる。
 國司大明神(大已貴大神)
 國司尾荒神(地主神)
 松尾荒神(酒造りの神)
 菅ノ宮 (天神)
 妙見社(大内氏の守護神)
各社それぞれの土地の守護神として奉られていた。

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勝部神社本殿

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本殿の彫り物

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末社神

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末社神

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末社神

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勝部神社由緒沿革 

往時は源家信仰の神で、頼朝が鎌倉に幕府を開くようになると、社殿の造営を命じ、祭田を寄進して祭祀を盛んにさせた。正月田、三月田、九月田、霜月田、行事田、油田等の地名が今に残っている。尼子晴久が一宮についで当社を造営した。もと、王太郎明神と称したのを明治元年に王昭神社と改め、同六年に勝部神社と改称し村社に列した。同四十一年吉滝神社を、大正六年に荒神六社及び
主祭神
稲荷倉稲魂・牛神・佐田等無格社十社を合祀した。
彦火火出見尊 倉稲魂命 八衢比古命 素盞鳴尊 保食神
彦火火出見尊・・・・
天津日高日子穂穂手見命。瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御子で、御母は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。御別名を火遠理命(ほをりのみこと)[火折命]と申すは、御母産屋に火をかけ給ひ、火勢の弱りたる頃産み給ひしによる。火遠理は、即ち火弱りの義である。山幸あり、御兄の火闌降命(ほすそりのみこと)は海幸あり。

倉稲魂命・・・・
(うがのみたまのみこと)『古事記』には宇迦之御魂神とする。ウカはウケと通じ食の義。
御魂は恩頼の意で功徳を称える名。食物の御魂といふに等しく、食物のことに功あり、主として治められた神として負い給うた御名。須佐之男命の御子で、御母は神大市比賣とある。
八衢比古命・・・ 
八衢比賣神と夫婦神で、共に街衢に坐して、外部より侵入して来る邪神・鬼魅・魍魎の類を禦(ふせ)がるる神である。
素盞鳴尊・・・・
進雄神 建速須佐之男命・神須佐之烏命・神速素盞鳴尊とも申す。『古事記』には伊弉諾大神、御鼻を洗い給いし時に生りませる神とあり。
保食神・・・・・ 
(うけもちのかみ)『日本書紀』一書に特有の神名。「ウケ」は「ウカ」と通ひ、食物を総称する言葉で、「ウケモチ」の神は即ち食物を主宰し給ふ神のこと。

作陽誌より
王太郎神明略縁記
 抑當社は天照大神の御孫瓊々岐尊の御子彦火々出見尊にておはします昔時源家信仰の神にして神威尤盛大なり平治年中源氏尾衰ふるに従って社頭須臾破壊に及ぶ頼朝公義兵を挙げ玉ふ始 大庭等是を防で石橋山に因じ玉ふ于時神明商夫に化現して左折の烏帽子を授け玉ふ 頼朝姓名を問ふに王太郎といらへ玉ふ程なく鎌倉に入て源氏再興の大将と成玉ふ後 舊恩を報ん為あまねく諸州を尋るに王太郎といふものなし始て此神の化現なることをしりて州牧に命て社頭を建立有且十二月田を寄附して四時の祭を營玉ふ其舊券兵燹に焼失し唯其地名存して田圃の中に殘れり所謂正月田三月田霜月田九月田也杳に干支を積で天文永禄の頃尼子浦上等連に本州を争ひ兵革暫も止時なし苫田の郷民等浦上に荷擔して一宮に屯す其勢當るべからず 然るに神明勝部の氏人に告て一宮の屯を離れ本在に歸らしむ 不思儀や今宵一宮回録して一揆悉く灰燼と成
神助を蒙るの故に我氏人は一人も火災にあへるものなし 尼子勝利を得て終に七州の太守と成玉ひ佐々木修理大夫晴久と稱す 永禄二己未年一宮を再興し此神明の霊験益いちじるしきことを聞て其序次を以て當社を營玉ふ至于今
 二百年以下寄進文略之
   寶暦八戊寅年               祠官   松岡 山城
                             同 豊前
輝雄云當國六十六社巡拝の古書に勝部村大照社社人松岡能登守同筑前守とあり考るに大照にて則火々出見尊なるべし或は天照大神乎後年大照を王太郎と訛ならんとす乎
*    平治年中(1159年)頃  石橋山の戦い(1159年)
*    天文二年(1533年) 一宮の焼き討ち
*    永禄二年(1559年) 翌三年十二月晴久死去
*    寶暦八年(1858年)
義時大明神
義時にあり
祭神・・・北條相模守義時
由来・・・承久の変において勝部領主大内中将俊行、順徳帝の召に因りて宇治に出て北條義時の寄手と戦い、軍破れて領地勝部に帰り此山に自害す。其の跡に寺を建、俊行が子助俊法師を大帯寺に居、勝部四拾貫文を寺領に賜りしは悉く北條泰時の仁政也 しかれば義時大明神は泰時の父義時を祭て守護神とせしなるべしと申傳ふ。
國司大明神・・・國司尾にあり
荒神社・・・國司尾にあり
妙見社・・・妙見にあり
荒神社・・・松尾にあり
菅ノ宮・・・菅ノ宮にあり
古鏡を穿る
元文元年國司尾荒神の古屋敷にて農作左衛門古き神鏡を穿出す大きさ五寸許裏に三宝荒神承平三年と記有之則荒神社に收たる所其後紛失すと云ふ
*元文元年(1736年) 承平三年(934年)

2013年4月25日取材(情報提供:勝部神社)