毘沙門天堂(下高倉東字寄松)

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 広域農道の宮東バス停留場の東の堀切に架かった陸橋の北側に毘沙門天堂がある。古くは現敷地の南側にあったが、広域農道工事のため昭和49年4月現位置に新築移転した。

 このお堂は「寄松山多聞寺が焼かれた後、北之坊因明であった芦田新介が、焦土と化した境内の一隅に一宇(いちう)を建て、毘沙門天の仏像を安置して守護本尊とし、崇拝祭祀した」と伝えられている。建立は室町時代の嘉吉(かきつ)年間(1441~1444)、建っている場所は寄松山多聞寺(きしょうざんたもんじ)北之坊があったところと推察できる。

 毘沙門堂に伝わる半鐘は龍頭が双龍式、乳の配列が4列4段、安国寺にある多聞寺の梵鐘と同じ形式で、作者も百済氏である。また、池の間には「作州 東北條群下高倉村 寄松山多聞寺」「天保八丁酉年三月 施主同村米井氏江川氏」と刻まれていて、江戸時代末期1837年の寄進で、このお堂を寄松山多聞寺 の再現とみなして崇拝していたことがうかがえる。

 また、安土桃山時代に善応寺(ぜんのうじ)が指定した高倉県霊場33か所の一つに毘沙門天堂があり、「古くは寄松山多聞寺」と付記されている。毎年旧正月には、米井・江川一族が集まり、善応寺の住職を招いて祭祀を執り行っている。(2013年3月21日・4月10日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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広域農道の宮東バス停留場の東の陸橋の北側に毘沙門天堂がある。

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正面の姿と4月10日の桜が咲いた様子を側面からみてみました。

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建っている場所は寄松山多聞寺(きしょうざんたもんじ)北之坊があったところ

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手入れの行き届いたお堂の中の様子。

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お堂と供に移築された木。            安国寺にある鐘

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寄松山多聞寺跡案内板
 寄松山多聞寺は、貞観2年(平安時代860)に天台宗第三代座主慈覚大師によって開山。この地が美作の国 分寺の真北に当ることから、仏の国の北を護る毘沙門天が鎮座するにふさわしいと、慈覚大師自ら霊木に刻んだ毘沙門天を老松の近くに納め、「寄松山多聞寺」 と名付けたと伝えられている。

 南北朝時代、美作国の守護山名義理は多聞寺への信仰心が篤く、寄進造営によって堂塔・寺坊・宮社が建ち並び、悪魔降伏の霊場として栄えていた。その後、赤松氏が守護職となったが、嘉吉の変(室町時代1441)で敗れ、逃走する赤松軍は多聞寺を破壊し焼き払った。
 寺人は仏具を埋め、本尊の毘沙門天像を背負って藤屋村(鏡野町藤屋)に逃れたが、60年後に下横野村(津山市下横野)に金光山多聞寺として再興し、今日に至っている。
  焼失から304年後の延享2年(江戸時代1745)に、ここから南の畑(鐘堀り田)で梵鐘が発掘された。梵鐘には「大日本国作州高倉県 寄松山多聞寺 永和3年(1377)丁巳11月23日」と刻まれている。現在、この地の字名は寄松、このほか奥ノ坊・南光山・寺坂・堂が鼻など、お寺に関わる地名から広 大な敷地を持つお寺であったことがうかがえる。(地図参照)なお、300年間土の中にあった梵鐘は津山市小田中の安国寺にあり、岡山県指定重要文化財に指 定されている。
 ここにある毘沙門天堂は、多聞寺の北之坊因明であった。芦田新介が、北の坊の焼け跡にお堂を建て毘沙門天を安置し、守護本尊としたものと伝えられている。
(2013.3.21取材)寄松山多聞寺跡看板より