【津山人】宇田川玄随(1755-1797)

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宇田川玄随(うだがわげんずい)
 宇田川玄随は元々漢方医で、蘭学に対して「西夷之子鴃其舌而左其衽何足以掛歯牙(西洋人はモズのように口を尖らせ、左前の服着た野蛮人で、歯牙にも掛けることはない)」という態度をとっていました。しかし、解体新書翻訳メンバーの一人であった桂川甫周や大槻玄沢から話を聞き、西洋医学に目覚めると、玄白などにも教えを受け、蘭学者となっていったのです。

1792年(寛政4)年10月19日、玄随が主導し、津山在住の藩医をはじめ、町医者2名が参加して、津山ではじめての解臓(解剖)を行った。

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「蘭学事始」にある宇田川玄随の記事
 「蘭学事始」には「津山侯の藩医に宇田川玄随といへる男あり」の一文から始まる、宇田川玄随の紹介記事があります。この記事によると玄白が玄随を高く評価していたことが窺えます。

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 津山侯の藩医に宇田川玄随といへる男あり、これは元来漢学に厚く、博覧強記の人なり、此業に志を興し、玄沢によりて彼国書を習ひ、其紹介にて翁と淳庵へも往来し、桂川
君、良沢へも漸く交を通したり
 後二長崎前通詞家白川侯の家臣となりし石井恒右衛門といふ人なとへも出入し、彼言語の数々をも習ひしが、元来秀才にて鉄根の人故其業大に進ミ、一書を訳し、内科撰要と題せる拾八巻を著せり、これ簡約の書といへどみ、本邦内科書新訳の始なり、惜しひかな四十余にして泉路に赴けり、此書歿後にいたり、漸く全部の開板なれり


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西説内科撰要(せいせつないかせんよう)1793年(寛政5)~1810年(文化7)刊宇田川玄随 訳 

玄随が10年をかけた日本初の西洋内科書の翻訳

 宇田川玄随が、10年をかけて取り組んだゴルテルの『簡明内科書(かんめいないかしょ)』の翻訳書です。病気を症状によって分類し、それぞれの定義・原因・治療法が書かれています。外科書は1774年(安永3)に『解体新書』が出来ましたが、内科書は本書が初めてです。全18巻からなり、玄随が亡くなったあとは、養子の玄真が引き継いで刊行しました。



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1792年(寛政4)年10月19日、玄随が主導し、津山在住の藩医を始め、町医者2名が参加して、津山ではじめての開臓(解剖)を行った。

「津山松平藩町奉行日記」(寛政四年十月八日条)

1792(寛政4)年10月19日、津山ではじめての開臓(解剖)が行われました。玄随が主導し、津山在住の藩医をはじめ、町医者2名も参加しています。この解剖に際し、必要な道具は玄随が用意したことが記録されています。津山洋学資料館展示室[1]にある模型はこのときの解剖の推定模型です。


※なんと、町医者はちょんまげ、藩医は坊主頭だったそうです。


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『解体新書』がもたらした江戸蘭学の隆盛、玄白と宇田川玄随・玄真

『解体新書』の刊行により、江戸での蘭学が始まりました。玄白の回想録『蘭学事始(らんがくことはじめ)』は、蘭学が始まったころの事情と、その後の発達の様子を晩年にまとめたものです。この中で、玄白は津山藩医の宇田川玄随・玄真について紹介しており、この両人に大槻玄沢を加えた3人を「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)」であると称賛しています。






※津山洋学資料館は、「解体新書」の本物が常時見ることが出来る洋学資料館です。


 IMG_0200.JPG蔵志(ぞうし)1759年(宝暦9)刊

 山脇東洋 著

 腑分けの観察による日本初の解剖図録

  1754年(宝暦4)、宮中に仕えていた医師山脇東洋は、京都所司代 酒井忠用の許可を得て、初めて腑分け(人体解剖)を行いました。本書は、その観察をまとめた人体の解剖図録です。頭部の観察ができず、また大腸と小腸の区別を見落とすなど、完全正確なものではありませんが、日本の医学界に大きな影響を与えました。


 IMG_0202.JPGターヘル・アナトミア

 1734年 アムステルダム刊

 ヨハン・アダム・クルムス 著

 『解体新書』の原本となったオランダ語の解剖書

 『解体新書』の原本になったドイツ人クルムスの『解剖図』のオランダ語訳書(ドイツ語原著は1722年にダンツィヒで刊行)。本書の解剖図を見た杉田玄白らは、そこに書かれた内容を知るために翻訳を決意しました。『解体新書』の凡例には「打係縷亜那都米(ターヘルアナトミイ)」と表記され、ターヘルが「譜(=表)」、アナトミイが「解体(=解剖)」を意味すると記されています。


 IMG_0199.JPG解体新書(かいたいしんしょ)

 1774年(安永3)刊

 杉田玄白・中川淳庵・前野良沢ら 訳

 日本初の本格的な西洋医学の翻訳書

 クルムス『ターヘル・アナトミア』を、日本語  (漢文)に翻訳したものです。1771年(明和8)に『ターヘル・アナトミア』を入手した杉田玄白らは、同年、江戸の小塚原で初めて人体解剖を見て、その解剖図の正確さに驚きます。苦労してオランダ語を訳し、初の本格的な西洋医学の翻訳書を出版し、日本の医学を大きく進歩させました。




同時代を生きていた北尾政美(きたおまさよし)

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エレキテルの構造を紹介『紅毛雑話』(こうもうざつわ)森島中良著1787(天明7)年

 エレキテルを使っている様子です。この図を描いたのは北尾政美(きたおまさよし)、後の津山藩絵師・鍬形恵斎(くわがたけいさい)です。左端の人物が源内、中央が中良の兄で幕府医官の桂川甫周、エレキテルを回しているのは政美といわれています。

(情報提供:津山洋学資料館)2013.9.26


※出藍の誉れ(しゅつらんの-ほまれ)...弟子が師よりもすぐれた才能をあらわすたとえ。青色の染料は藍から取るものだが、もとの藍の葉より青くなることからいう。「青は藍より出でて藍よりも青し」ともいう。(goo辞書より)