旧遷喬小学校 ~美作は謎に満ちて~

遷喬2.jpg

美作国theミステリーの謎解きでやってきた。ヒントは「遷喬小学校の校舎と向かい合え、真正面から、川のうねりを感じられるだろう。ただし、ほはあげるな。」です。

頂いた資料によると、旧遷喬尋常小学校は、「明治40年(1907)に巨額な費用を投じて建てられた木造校舎が、平成2年(1990)の夏、84歳にして小学校の役目を終えた...。今も、どっしりとした威容を誇る我が母校。あの木造校舎が、私たちの心をとらえ続けるのはなぜだろうと考えてしまう。旧久世町の教育を語る時、ルネッサンス風木造校舎ぬきでは考えられない。明治の先人たちが残した学校(子弟)教育への情熱を後世に伝えたい。人生の出発点を育んだ小学校時代を、ここを訪ねる人に思い出してもらい、明日への活力としていただくことを願う...」(2013.9.28取材)

遷喬1.jpg遷喬3.jpg

「校名は、中国の古典、詩経の一説で「出自幽谷※遷于喬木」から明親館のつながりを持つ山田方谷が名付けた。ゆうこくよりいでてきょうぼくにのぼる(※うつるともよ む)。2文字をとって遷喬(せんきょう)とした。伐木(ばつぼく)という題の詩、全18行の2行目にある一節で、自然の情景を詩った場面であるが、ウグイ スが深山の暗い谷間から飛び立ち、高い木に移ることに例えて、学問に励み立身出世することと解釈されている。鳥取市立遷喬小学校とは姉妹校の縁を結び交流 を続けている。」

エスパス.jpg遷喬うら.jpg

隣はエスパスホール                 校舎の裏側です。

「明治3年(1870)町内の有志が発起して大旦高下に明親館という塾をつくった。命名は備中聖人の山田方谷であり、自ら「明親館」の額を書いた。塾の先生には方谷の門人があたり、生徒数は46人であった。」

遷喬24.jpg遷喬4.jpg

下駄箱も現役です。                  柱時計

遷喬19.jpg遷喬20.jpg

ALWAYYS三丁目の夕日(平成17年)の撮影が行われた。

遷喬18.jpg遷喬13.jpg

ALWAYYS三丁目の夕日で使われた教室

遷喬8.jpg遷喬17.jpg

ALWAYYS三丁目の夕日で使われた教室

遷喬14.jpg遷喬23.jpg

ALWAYYS三丁目の夕日で使われた教室    犬神家の一族でも使われた

遷喬15.jpg遷喬16.jpg

こんな大きな定規使っていたのか。

遷喬7.jpg遷喬6.jpg

「明治40年建築のシンメトリー木造校舎。
旧久世町指定文化財。平成2年夏、小学校としての役目を終え、現在は一般に開放している。設計は県の江川三郎八工手、建築材は真庭市木山国有林の優れた檜、杉材を選定し使用している。」

遷喬11.jpg遷喬12.jpg

講堂の格(ごう)天井は圧巻

遷喬10.jpg遷喬5.jpg

階段も趣がある                   制服

遷喬21.jpg遷喬22.jpg

                              懐かしいオルガンを見つけました。

遷喬25.jpgwaribashi.jpg
「帆を張った高瀬舟で「久世」をデザインしている。本校舎開校時から大正12年(1923)まで使用していた。その後は久世の「久」を上下に組み合わせ、ま ん中に「小」を入れていた。平成6年(1994)化粧直しをした時、元の高瀬舟に復元した。屋根の正面に校章の入った丸いドーマーウィンドウがある。」(文:旧遷喬小学校パンフレット・HPより