【津山人】箕作阮甫(1799-1863)

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阮甫は生涯一医者にとどまらず、経済・天文・法学・地理・物理・兵学など洋学者として、広く学問を修め、幕府の外交政策等にかかわり、近代日本の文明開化の先がけとなった一人で多くの業績を残した。まさに郷土の誇りである。勿論日本の誇りでもある。孫の菊池大麓は、東京大学の理学部教授・理学部長を経て、総長まで務め、のちに文部大臣、京都大学総長も務めました。(情報提供:津山洋学資料館)


箕作家のルーツは、近江源氏の一族で、佐々木姓を名乗り、平安末期から戦国時代の終わりまで、守護・戦国大名として近江一帯を治めていた。

室町時代に佐々木22代高頼の子で箕作山(現滋賀県五箇荘町)の城主であった定頼が箕作氏を名乗ったことにより、箕作家は始まる。

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阮甫は寛政11年(1799)松平藩5代康哉(やすちか)の時、西新町旧宅で生まれ14歳まで過ごした。

12歳=兄豊順が亡くなった為、家督を継ぐ。(箕作7代)1810(文化7)

17歳=藩儒永田桐陰に漢学を学ぶ。1815(文化12)

18歳=京都で竹中文輔のもとで医学を修業。1816(文化13)

21歳=津山藩儒医、大村家のとゐと結婚。1821(文政4)

22歳=藩主、松平斉孝(7代)に従って江戸を出る。津山藩(江戸詰)の侍医宇田川玄真の門に入って洋学を学ぶ。1823(文政6)

33歳=江戸詰となり妻子とともに江戸へ移る。以後江戸で活躍する。1831(天保2)

40歳=幕府天文台に出役し「蕃書和解御用」に携わる。1839(天保10)

55歳=アメリカ合衆国使節ペリーが浦賀に来航、同年ロシア使節プチャーチンが長崎に来航時には、外交文書の翻訳に携わり、養子の箕作秋坪、ジョン万次郎、村田歳六などと共に活躍する。1853(嘉永6)

58歳=幕府「蕃書調所」の教授となる。蕃書調所が現在の東京大学の前身であることから、阮甫は日本最初の大学教授と称される。1856(安政3)

60歳=神田お玉が池に「種痘館」を開設。のち東京大学医学部へと発展する。1858(安政5)

64歳=洋学者として始めて幕臣に列せられる。1862(文久2)

65歳=湯島天神中坂下で没した。明治維新の5年前のことである。1863(文久3)


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幕末に活躍した洋学者箕作阮甫の生まれ育った家です。当時の町家がそのままの雰囲気で解体復元されています。町医者であった箕作阮甫の旧宅は、よく江戸時代の姿をとどめているとして国の重要指定史跡となり、再整備され公開されています。


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