千年寺とさくらの花(津山市下田邑)

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長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されています。(2014年4月6日)

 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。

(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)※前回の取材に詳しく載っております。

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千年寺の入口

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さくらの花が満開でした。

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寿塔(逆修塔)は市の指定文化財です。

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長継院殿静休道岳大居士現化即法身

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このお墓は、黄檗二十四代當山重興石窓劫和尚大禅師之ガン 津山松平五代康哉(やすちか)公の参禅の指導をされた方で、将軍家から声がかかって本山二十四代住職となり、五百両拝領したという高僧だったそうです。(信州長野県出身)

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関森亀岳和尚の碑(江戸末期から明治にかけて寺の難渋のとき住職をされた方で陸奥宮城県の出身)



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生き仏様と呼ばれている鐡堂融和尚のお墓へ続く道

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ツバキの花がびっしり!でした。

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生き仏様と呼ばれている鐡堂融和尚のお墓。(人が入れる程大きな石室)

周りには水はけを良くするための溝が二重に掘ってあるのがわかる。

黄檗の高僧 鐡堂融和尚(1630〜1702)


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黄檗の高僧 鉄堂道融和尚
鉄堂道融(1630~1702)
 はじめ碧天、法諱 道融
 寛永7年、美濃加茂郡加治田村に出生。8歳のとき父母に伴われて同国の禅徳寺(臨済宗)の実休和尚について出家、得度ののち受業の師に従い美作の宗堅寺に移りました。
 藩主森氏の家臣・原氏の室松峰院がその才を愛して講律に学ばしめましたが、27歳のとき「元亨釈書」を読んで発憤し禅門に向かう。
 この時隠元禅師が長崎に渡来されて、寛文元年(1661)京都宇治に黄檗山万福寺開創を知り勇躍して登檗し隠元禅師に参詣・第一次三壇戒会にて受戒する。34歳でありました。同4年9月黄檗二代木庵和尚の法をつぎ参堂ののち、美作一宮の山中に関長政公が造って居られました広福庵に隠遁されます。
 寛文8年11月7日、藩主森内記長継公が西北条郡田能村(下田邑)に一寺を創建の際に群鶴が飛来し、その祥瑞が祝われました。翌年春に落成して長継山千年禅寺と号されます。時に長継公の命を受けた本源寺の堂頭即空和尚に千年寺住持を請われますが辞退されました。けれども再四の請いにより黄檗二世木庵禅師を千年寺開山和尚とし自身は二代の住職として2月
25日入寺されました。
延宝元年(1673)冬安居に登檗して木庵和尚に省観し同主の資格を与えられます。解制ののち帰山、45歳でありました。藩主より千年寺に百五十石の寺田及び山林が寄進されました。
 この頃江戸紫雲山瑞聖寺(新見・関家菩提寺)に招請されますが老をもって固辞されます。延宝6年夏、千年寺を退院して飛鍚し、大和吉野郡上多古村の山庵に寓居されましたが、翌7年春森家の重臣・森宗兵衛・長尾隼人が森長継、関長政両藩主の命を受け長尾九左衛門、村井覚右衛門をつかわして千年寺再住を懇請され入寺されました。同年冬、長継公の命により広福庵を瑠璃山本光禅寺と改め開山となり、千年寺末として弟子の北巌元雄を二代目住持とし長継公より寺田・百五十石及び山林が寄進されました。
 天和元年(1681)、長継公側室継光院(お偕の方)は下田邑の二子山道場寺の古跡を贈られていましたのを復興して瑞応山金粟庵(こくぞくあん)と寺名を改め、鉄堂和尚の退隠所としました。二百数十年後の大正10年ごろに村内の神社が合祀されて金粟庵は『田神社』となりました。
 [関長政公夫人松遷院は寛文3年(1663)黄檗山に隠元禅師さまの隠居場「松隠堂」を寄進して居られます]
 元禄12年(1699)3月23日、鉄堂和尚の70歳の祝寿の斎が行われました。同14年秋、弟子の普山元徹に後席をゆずり千年寺を辞して金粟庵に隠退されました。
 元禄15年(1702)9月23日朝弟子達にむかって、「老僧行期包逼 汝等不得遠離」と言われました。そこで末後の句を求められますと「老僧平日語言 皆是末後句也」と言われ弟子たちの謝辞に左右を顧みて怡然と示寂されました。時に元禄15年9月23日巳刻、世寿73歳。嗣法の門人、北巌雄・義円全・鐘山覚・晋山徹・鳳山桐。鬀度弟子若千人。
 門人常円記「千年第二代鉄堂禅師行由」(悦心編『黄檗高僧伝』)
平成16年2月
津山市一宮 本光寺住職 北川 艶香 誌す