【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

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文政8年(1825)、呰部教論所の学監 菊池文理の二男として阿賀郡下呰部村(現真庭市下呰部)に生まれる。江戸に出て箕作阮甫に蘭学を学び、後にその養子となった。
文 久元年(1861)、幕命により通商条約実施延期交渉のため、欧州六か国を訪問。また慶応2年(1866)には、北方領土境界交渉のためロシアを訪問する など、幕末の外交交渉に活躍した。維新後、英学塾「三叉学舎」を開設、原敬・東郷平八郎・平沼淑郎ら多くの門人を育成するとともに、森有礼・津田真道・福 沢諭吉らと明六社を興し、明治初期の代表的知識人として知られた。19年(1886)東京で没す。(資料提供:洋学資料館)

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ブロンズ像



syuhei_1.jpg 箕作秋坪肖像(写真:津山洋学資料館)

~箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の生い立ち~
 箕作阮甫は、娘婿の省吾を病気で亡くした後、弟子の菊池秋坪を次の養子に迎えました。今回は、その秋坪の生い立ちについて紹介しましょう。
 文政8年(1825)12月、秋坪は備中国下呰部(現在の真庭市下呰部)にあった学校「教諭所」で、学監(副責任者)をしていた菊池文理の二男として生まれました。地域を回って人々を教化していた文理は、温和な人柄で尊敬されていたといいます。ところが、秋坪が13歳の年、文理は39歳の若さで亡くなってしまいます。秋坪の兄も早くに亡くなっていたため、秋坪と母と妹は地域の人々に支えられながら、そのまま呰部で暮らすことになりました。
 天保12年(1841) 、17歳になった秋坪は、父の友人であった津山藩に仕える儒学者・稲垣研嶽に引き取られ、津山へ移り住みます。そこで漢学の基礎を習得すると、父と研嶽の師匠である儒学者の古賀侗庵を頼って江戸へ上り、儒学を学ぶことにしました。
 しかし、この頃は相次ぐ外国船の来航で蘭学の需要が高まりつつあり、時勢を察した侗庵は秋坪に蘭学を学ぶよう勧めます。こうして弘化3年(1846) 、22歳の秋坪は阮甫に教えを請うことになったのです。
 阮甫の下で勉学に励んだ秋坪は、その向学心を見込まれて阮甫から養子になるよう勧められました。嘉永2年(1849) 、秋坪は大坂にある緒方洪庵の適塾に入門します。適塾の記録には「箕作阮甫の義子」と書き添えられているので、この時には、もう養子の話が内々に決まっていたのでしょう。阮甫と洪庵は、宇田川玄真の下で学んだ兄弟弟子だったので、阮甫も信頼して洪庵に秋坪を託せたのです。この頃に阮甫が秋坪に送った手紙には、しっかり勉学を修めることを願った、温かい言葉が綴られています。
 嘉永4年(1851) 、2年間の修業を終えて無事に江戸へ戻った秋坪は、阮甫の三女つねと結婚し、新進の医師として活躍を始めます。そのわずか2年後、浦賀にペリーが来航し、日本は開国への道を歩み始めます。そして秋坪も、その時代の流れに直面していくことになるのです。(文:「洋学博覧漫筆Vol.39より)


箕作秋坪の二男

菊池大麓(きくちだいろく)1855-1917は、。ケンブリッジ大学を首席で卒業。東京大学に数学科を創設。東京・京都の各帝国大学総長、文部大臣を歴任彼の刊行した『初等幾何学教科書』は明治から大正にかけて教科書として使用され、「菊池の幾何学」は有名となった。(文:津山洋学資料館より)