兼田の大きな道標と交通の近代化(津山市国分寺)

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兼田の大きな道標と交通の近代化(明治末~)2014年6月29日取材

 津山の最初の鉄製の橋、昭和5年にできた。旧出雲街道の川崎と河辺を結んで加茂川にかけられたこの橋は長さ90.5m、幅5.35m、現在は約70m下流に因美線の跨線橋を兼ねた国道53号線の新兼田橋ができている。

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ピンク色の夾竹桃が綺麗です。

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兼田道しるべの内容と建立
道しるべの南側には「右 播州ひめじ 二十一里 信州善光寺 百五十五里 左 つやま大はし 三十丁」西側に「左 いな ば鳥取へ 十八丁半 高円ぼだいじへ 六里道 城戸口重吉建」と記されている。これを建立した城戸口重吉は、林田町の住人で油屋を広く営み財をなした商人 といわれている。明治14年頃から一般家庭にランプが普及するようになって灯油・石油の販売は明治末~大正期に電気が普及するまでは大いに繁盛したらし い。重吉は、同時にほぼ同じような道しるべを西寺町妙法寺角にも建立(郷土博物館の前の庭に現存)していて、その許可願いの文章もあることから、結局この道しるべは、明治 20年(1888)に設置されたと見なされている。なお、刻まれている歌は、「もろ人に此の世の道ハをしふれどさきの世まではわかりざりけり」とある。

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〇兼田橋東詰めの道標 「右 国分寺道 南無地蔵菩薩」「安政10年(1781)建立」

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兼田橋(昔は渡し船と仮橋、近代化で鉄筋の大橋)

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兼田橋


因幡道とは
津山城ー2-玉琳ー6ー楢ー日本原ー14-関本ー杉ケ乢ー8-黒尾峠ー12-智頭 数字は㎞
 津山城下から出雲街道そ東進し玉琳(川崎)にて分岐して北東へ丘陵を越えて加茂川の河岸の楢(津山市)の集落に至り、楢の集落からは国道53号線にほぼ沿って関本(奈義町)へ至る。
 ここから北東方向の杉ケ乢を越えてから馬桑川に沿って黒尾峠へと上り、この難所を越えて因幡街道と合流する智頭宿へ至る街道が「因幡道」である。
 この街道は「因州街道」とか「横仙道」と呼ばれていた。この因幡道は参勤交代の道路ではなく、山陰と山陽(津山城下)を結ぶ生活道であり、日本原地方(横仙地方)の人々にとって重要な街道であった。
 海から遠くはなれており、山陰から運ばれる「塩サバ」「焼サバ」「干物」など多くの海産物は貴重な食物であったと言われる。
街道の全長は約42kmで津山城下から黒尾峠までは約30kmである。

(文:美作の歴史を知る会 宮澤靖彦)