沼の住居跡地の今

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2014年11月6日取材     (前回の取材)

 弥生時代以降、津山は農業を基盤として発達してきました。江 戸時代に津山城が置かれてからも、城下町は周辺の農業集落を背景として成り立っていました。明治時代になってからも、近代産業の発達はたち遅れたため、交 通の要衝(ようしょう)という位置をいかし、周辺の農業収入を背景とした商業を特に発達させてきました。

第二次大戦後は、この農業が凋落(ちょうらく)の一途をたどったため、それにともない津山も徐々に活気が失われてきているというのが現状でもあります。

農業の永い歴史をふりかえり、それを支えてきた村とはどのような仕組みで成り立っていたのか、また、どのように運営されてきたのかをここで再認識していただき、新しい津山のありかたを考えるきっかけにしていただければ幸いです。

                                     文:津山弥生の里文化財センター

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沼の弥生時代の住居跡の紅葉

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 平面の長さが約10m、幅は約8mあり、これまで発見された竪穴住居址としては非常に大きな部類に入ります。

 竪穴住居の中央部にはイロリがあり、そのイロリを囲んで家族生活が営まれていたようです。竪穴住居址を調査すると、時には紡錘車という糸紡ぎの道具や鉄の 加工具、あるいは石の道具を作る際に出る石くずなども発見されるので、竪穴住居の中では布を織ったり、木や石の道具を作ったりもしていたようです。

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住居跡

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掘立柱建物

弥生時代の集落遺跡を調査すると、柱跡が発見されます。それらの並びぐあいから、銅鐸や土器に描かれている高床の倉庫の跡ではないかとみられるものもしばしばみられます。

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橋を渡ると高床式倉庫があります。

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高床式倉庫

収穫された米などは高床式倉庫や貯蔵穴に蓄えられる。

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紅葉が美しい。

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紅葉が美しい。