洗顔清水(後醍醐天皇伝説地)(種)

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洗顔清水(後醍醐天皇伝説地)
 元弘2年(1332)3月後醍醐天皇は鎌倉幕府討滅計画の失敗により隠岐島に配流された。その際、美作通過の行程について「太平記」や「増鏡」によると、播磨との国境杉阪から雲清寺、久米のさら山をへて院庄に入ったと推定される。
 このうち雲清寺の所在については直接のてがかりがなく、配流の具体的な道筋はなく不明とされてきた。そこで、幕末の国学者平賀元義らは、久米のさら山を詠んだ後醍醐天皇の歌「聞きをきし久米のさら山越えゆかん道とはかねて思ひやはせし」の「越えゆかん」の句などから、天皇の配流の道筋を押淵から種をへて皿に至る山越えの古道とした。そして雲清寺をここより西約100メートルの多祢神社東の峠付近と考証した。その途中のこの場所には、昔からいかなるひでりにも絶えることのない清水があり、天皇はここで顔を洗ったと伝えられる。今も地元の人々は洗顔清水と呼び、後世に守り伝えている。
平成10年2月 津山市 (津山市案内板より)(2015年11月11日撮影)

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後醍醐天皇ゆかりの地
 「千貫清水」と伝える湧き水があり、元禄4年(1691)の「作陽誌」も久米郡南分山川部・長岡庄に「百貫清水、種村にある。水ははなはだ清く冷たい。俗に一くみは百貫に価するというので、その名の由来としている。荒荒神に流れ、押淵にいたる」と紹介している。地元の伝える千貫と百貫の違いはあるが、意味は同じであろう。近くの吉村さん(明治36年生まれ)は「観音堂の反対側に、道の下に千貫清水がある。冷たい水で水量は夏も冬も変わりがない。夏は冷たいので子どもが年齢の数の石を拾おうと思っても拾えないほどだ。冬は暖かいので野菜を洗ったりしている。飲み水のもなる。」(昭和54年当時の話)と話している。(出雲街道第3巻)

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雨の洗顔清水もまた風情があります。

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12月に入った洗顔清水の遠景ですが、この棚田の景色がいいですね。

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11月の洗顔清水の遠景