吉川英治『宮本武蔵』掲載開始80周年記念「武蔵×武蔵」

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2015年10月10日~11月1日まで勝央美術文学館に於いて、吉川英治『宮本武蔵』掲載開始80周年記念が、~吉川英治と木村毅 二人の剣豪~「武蔵×武蔵」と題して開催されました。


『鵜図』 一点一画の加減も許さない完璧な名画である。画評に用いられる逸品とは、このような絵画を指すのであろう。
 巌頭に佇立している鵜の姿勢はまことに自然、風貌はまったく凝るところがない。鵜は人にとらえられて、人のために魚を取ることを余儀なくされる。鵜は魚を取ってとらず、人は魚を取らずして掴む。奸智のうしろめたさを人は鵜に見る。しかし、鵜はただ本能のままに魚影を探るにすぎない。ひたすら無心の鵜と、分別する有心の人間とのドラマ、この絵にはつきぬ興味がある。

 禅宗僧侶によって、減筆撥墨の宋元水墨画様式が伝えられて以降、その技法は次第に定着しついには中世絵画の支流の地位を占めるに至った。そして、禅林檀越の武家衆のなかに、職業画人以上の佳作を残した人々があらわれた。足利義持、土岐頼藝、土岐洞文、山田道安である。これら武人画家の系譜の第一に指を屈 するのが海北友松であろう。武蔵は友松に私淑したと言われる。
 武技の練磨で得た対象把握の判断力は、わずかな墨汁を数筆の横線に托す減筆撥墨法にきわめて有効であるにちがいない。禅宗と武家の密接な有機的結合が、中世後期に、爽々の薫風を送り込んだのである。武蔵はそのゴールであり、最後の人であった。
 この「鵜図」はその武蔵の画蹟のなかでも特に極点に立つ傑作の一つである。(文:説明より)

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宮本武蔵の描いた画

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宮本武蔵の描いた画

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宮本武蔵の描いた画

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 吉川英治の新聞小説「宮本武蔵」は朝日新聞にて、昭和10年(1935)8月23日から、昭和14年(1939)7月11日まで、4年間に渡り掲載された。
 二天一流の開祖でもある剣豪で、剣禅一如を目指す求道者・宮本武蔵の剣士として自己を確立するに至るまでの成長を描くと同時に、彼を取り巻く武芸者たちの人生も描かれている。
 この連載は、最初は200回くらいの約束で始めたが、太平洋戦争下の人心に呼応し、新聞小説史上かつてないほどの人気を得、1000余回の大作に発展していった、大衆小説の代表である。

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吉川英治「宮本武蔵」
 1600(慶長5)年、若い功名心に燃えて17歳の新免武蔵は、友達の本位田又八と西軍に身を置き関ヶ原の戦いに出るが敗れる。徳川家康の残党狩りから、お甲・朱美母子の家に匿ってもらうが、又八は許嫁のお通を捨て、お甲母子と共に武蔵の前から姿を消す。
 又八のことを、又八の母やお通へ報せるため武蔵は宮本村へ帰郷したが、残党である武蔵は、故郷でもおたずね者として、白鷺城(姫路城)の侍や村人に追われることになる。やがて禅宗の僧侶・沢庵宗彭に捕らえられ、千年杉に縛り上げられる。武蔵は沢庵に諭され、もう一度生きて出直したいと思うようになる。
 お通と共に宮本村を出た武蔵は、白鷺城の天守閣の開かずの間に籠り和書、漢書、禅書、国史など大量の書物を読んだ。3年後天守閣から出た武蔵は沢庵によって名を「宮本武蔵」と改めると、白鷺城主・池田輝政からの士官の誘いを断り、剣に生きるべく修行の旅に出る。

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木村毅(きむらき)の『宮本武蔵』
 木村毅(きむらき)の『宮本武蔵』は、山陽新聞にて、昭和42年(1967)4月10日から、同年11月2日まで、約1年間に渡り、全205話掲載されしたが、未だ書籍化はされていない。
 吉川英治の『宮本武蔵』が大変な人気を博し、それを意識して書かざるを得ない中、木村毅は郷土である美作国に残る数少ない資料をかき集め、その内容を考証しつつ、吉川英治との回顧譚などを交えた、木村毅の実話文学の形を取った作品になっている。
 本作は、熊本に落ち着いた武蔵が、過去を振り返りながら、五輪書を執筆する場面から始まっている。(文:説明より)

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吉川英治の「宮本武蔵」第1~8巻

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織田信長                    新・宮本武蔵考