幻の佐平焼

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 浮田佐平(1867年~1939年)は、製糸業をはじめとして、植林製材、三椏の栽培、奥津峡の観光開発など、多彩な事業をな した実業家でした。五十才を過ぎた佐平は、郷土の特産品を増やすため、各地から陶工を呼び寄せて大規模な窯を築き、最高の焼き物づくりに挑戦しました。こ れが、佐平焼と呼ばれている焼き物です。難しい結晶釉にこだわった佐平焼は、美しく光る細かな模様をその特徴とします。(文:津山郷土博物館 特別展「佐平焼―結晶釉の美と特産品創出―」より抜粋)

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 佐平は、独自の焼物を完成させるため、全国各地の窯元を訪問したと言われています。のこされている手紙などから、京都と熊本県の天草に行っていることがわかります。
 当時、京都には市立陶磁器講習所と国立陶磁器試験所がありました。そのどちらにも最先端の技師が在籍しており、佐平はその両方の技師と手紙をやりとりし、さまざまな情報を得ています。
 大正12年(1923)、佐平は天草の水平焼五代目岡部源四郎と会い、意気投合しました。源四郎は、今までになかった赤海鼠の釉薬を完成させ、万国博覧会において賞を受賞していました。源四郎は実際に津山に来て、アドバイスをしたと考えられます。

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「売らずの佐平焼」?
 佐平は、未完成の佐平焼を市場に出したのでは津山物産の名を汚すと、当初焼いては倉庫にしまいこんだと言われています。そのことで「売らずの佐平焼」と呼ばれていました。 
 実際には昭和6年(1931)から一般に売りに出しています。昭和9年には当初の目標の一つであったロンドンへの輸出契約にまでこぎつけました。
 しかし、同年佐平は病を得て、その後佐平焼は製造されませんでした。

(文:津山郷土博物館(特別展「佐平焼―結晶釉の美と特産品創出―」より抜粋)

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窯を築く
 佐平は、大正12年(1923)の秋から冬にかけて、津山城跡の東、宮川のほとりの稲荷山地区に、五室の登窯をつくりました。
 窯をつくるにあたっては、京都や天草の職人が津山に来たと考えられます。
 佐平は、五室の登窯をつくったのち、大量生産のため、十二室まで増築しました。

(文:津山郷土博物館(特別展「佐平焼―結晶釉の美と特産品創出―」より抜粋)

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佐平焼

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佐平焼

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佐平焼

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佐平焼

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佐平焼

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高台がお猿の顔をしています。          こちらはカエルです。

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結晶釉の美
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(2015年11月9日撮影)