国宝になる前の松江城

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 松江城は平山城で、天守がある本丸の周辺に二ノ丸上ノ段、二ノ丸下ノ段、後郭がめぐり、南には堀を挟んで三ノ丸がある。
 城全体の構えは東側を正面とするが、天守自体は南向きとなっている。天守は、彦根城・犬山城と同じように附櫓を設けた複合式望楼型で、一、二重目は大入母屋屋根で全面下見板張り、望楼部と附櫓も一部白漆喰であるが窓廻りの木部はすべて黒塗りで、黒を基調とした天守である。
 全国に現存する12天守の一つで、天守の平面規模では2番目、高さでは3番目、古さでは5番目である(国宝・重要文化財建造物目録/文化庁編)。昭和10年に国宝に指定され、昭和25年には文化財保護法の制定により重要文化財と改称されたが、平成27年7月8日、国宝に再指定された。
 明治の初め、全国の城はほとんど取り壊されたが、松江城天守は地元の豪農勝部本右衛門、旧松江藩士高城権八ら有志の奔走によって山陰で唯一保存され、松江のシンボルとして親しまれている。[文:(一社)松江観光協会HPより抜粋]、(2013年10月13日撮影)

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松 江城は慶長12年(1607)から足かけ5年の歳月を費やして堀尾吉晴によって築かれました。以来、堀尾氏3代、京極氏の治政を経て寛永15年 (1638)からは松平氏が城主となり、その間一度も戦乱に巻き込まれることもなく明治維新を迎えました。山陰地方で唯一、天守を現存する貴重な城郭で す。(文:案内板より)

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松江城の虎口附近でなんと松江城大手門の復元資料(古写真や設計図)を探した方には賞金額が500万円の看板がありました。が、ほどなく軒札が見つかったそうで無事国宝となりました。よかったですね。

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堀尾吉晴により、築城開始から5年の歳月をかけ、慶長16年(1611)に完成。

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松江城天守の特徴は、最上階が四方を見渡せる望楼様式であり、壁は白加部が少なく、黒く厚い板でおおわれ、石垣はごぼう積みと呼ばれる積み方がしてあります。城内には兵糧貯蔵用の穴倉、井戸、総桐の階段、寄木柱、石落とし等を備え、実戦本位に造られています。また、松平家の家宝備前包平の太刀、武具、調度、古文書、松江城天守雛形など、約二百点が展示してあります。(文:案内板より)

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本丸一ノ門正面

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本丸にそびえる天守閣は、桃山初期の城郭の特徴を残し、華やかな造りを排した実戦本意の造りで、天守閣の最上部の屋根にあるシャチホコは、木彫りで銅張り、高さは約2mもあり、これは現存しているモノでは最も大きい。

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別名「千鳥城」とも呼ばれる城の外壁は大部分が黒塗りの下見板張り。

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何と言ってもお堀が美しい(南櫓附近)      太鼓櫓、南櫓、塀

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屋台船に乗ってみました。遊覧船で堀を周回し観光する堀川めぐりがある。

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松江神社は、1877年(明治10年)に、旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建された。

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興雲閣(こううんかく)この建物は、山陰地方に明治天皇をお迎えしようという地元の強い要望によって、その御宿所とするため松江市が13,489円をかけて明治36年(1903)に建設した。
 まもなく日露戦争が起り、天皇の行幸は実現しなかったが、明治40年5月、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の山陰行啓のとき、ご旅館としてその務めを果たした。
 当時はロシア宮殿風といわれ、その名は広く近隣にとどろいた。木造白塗の壁に入母屋の瓦屋根をのせた擬洋風で、1・2階とも周囲に列柱廊を設け、廻廊をめぐらす。ポーチ上の部屋は応接室で拝謁所に使用された。
 洋風スタイルの中に和風の装飾を取り入れた明治の木造建築として貴重である。(文:案内板より)

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松江城を中心に周辺を回るコースがある。