間山高福寺の由来(勝央町)

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間山(はしたやま)高福寺の由来
 開基は推古天皇の頃(592~628年)で聖徳太子によって、用明天皇紗勅願所として創建したと言われる。
 天平9年(737年)僧行基は当地を訪れ「上見てもまた下見ても天の川 中にそば立つはした山かな」と詠じてその景勝を称し、その後勅命を受けて、七間四面の金堂、五間四面の堂宇を建立して仏像を奉納するなどした。淳和天皇(820年代)の一時期この寺院内で国府の政務が行われるなどして繁栄を見たが、歳月を経て老朽化、衰微をたどりつつあった一条天皇の頃(986年~1011年)書写山の性空上人によって再興がはかられた。新たに山王七社を勧請、弁財天を祀り、数十のおよぶ僧院などを造り、東西に浴室を設け、山門を造営して金剛力士像を安置した。以前をしのぐ繁栄をもたらした。承久の(1221年)で後鳥羽上皇が隠岐島に配流の途次、本寺に参詣された。
 天正年間(1570年代)、三星城合戦の余波を受けて、大半が消失してしまった。(これについては、自然発火による火災説がある。)(2013年12月23日撮影)

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 寛永年間(1640年代)に至り破損が甚だしい仮堂を、勝間田村の福田市右衛門らが改造修復した。これが現存の薬師堂であるとされている。この頃故あって津山からこの地に入った念西は再興に力を尽くした。なかんずく、寛文年間(1660年代)近隣の助力を得て梵鐘を鋳造し奉納している。
 当境内に現存し美作町指定の重要文化財(2016年の現在は美作市指定重要文化財)である。本寺は初め天台宗であったが、戦国中末期頃から真言宗に改宗したと言う。なお旧暦卯月八日には今日も地許民らによって法会が営まれ、甘茶の接待や痩御前(やせごぜ)の行事が往時を偲ばせ名残りを僅かに留めている。また林野の安養寺は江戸時代初期に当高福から移ったもので、「間山安養寺」と称する。毎年催される安養寺会陽の発祥の地はこの高福寺とされている。(文:案内板より)

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お籠り堂                     薬師堂

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大師堂

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境内

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鐘撞堂                     

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弁財天                     水垢離池

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高福寺の境内
高福寺の再興は思うに任せず、僧空の代に至って安養寺を間山より倉敷(林野)に移し京都仁和寺と直末の関係を結んで現在に至っている。高福寺は無住となり僅かに薬師堂、弁財天社、鐘楼を残すのみとなって地元氏子並びに上相、曽井の篤志の人々よって命脈を保っている。「やせ御前」修験行者の「四段焚き」の行事等は近年まで行われていた。

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四角宝塔
 間山高福寺廃寺に現存している弁財天より北方のこの四角宝塔に「北朝康永甲申2月吉(1344)為阿閣梨定慶」と刻されている。町内で北朝年号の石造遺品は3ヵ所に現存しているが、それはこの四角宝塔と東光寺油地獄、植月一本松の如法経塔であり、南朝年号の石造物は、まだ発見されていない。
 宝塔の形式は、非常に多く天台宗と真言宗では多少の相違がある。この宝塔は塔身に梵字で、四仏がみられ、密教系の四角宝塔であり、年代的にも貴重な遺物である。
阿閣梨定慶については記録なく未知の人物である。
昭和六十三年三月一日
勝央町文化財保護委員会
美作学術文化振興財団