西御殿跡(里公文)

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西御殿
 神代の十字路からも備前街道は県道に添うてはいるが間に田地をはさんだ左側の山裾の道であって此の道は柄尾谷池に差しかかって始めて右折して県道に吸収されて池畔を進めば、池土堤の右側に貴布祢神社の裏鳥居がある。
 鳥居の前をすぎて県道が右に曲がるあたりの左向うに「西御殿」がある。立派な石垣がめぐらされていて、正面の石段を登ればそこは広い屋敷跡「殉難碑」が建てられており、久米町の重要文化財に指定されている。

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 幕末、二回目の長州征伐に際して岩見國(島根県)浜田藩主松平右近将監武聡は幕府軍に属して石州口の守備についたが、村田蔵六(後の大村益次郎)の率いる長州軍に大敗し、慶応2(1866)年7月、自ら城に火を放って杵築に、続いて松江(共に島根県)に退き石見國の領地は全部長州軍に占領せれたので、藩を挙げて美作國の飛領地、久米北条郡の内17ヶ村へ移動することとなり、藩主は慶応3(1867)年3月26日、里公文中村、大庄屋福山元太郎邸(久米郡大字里公文619番地)に入り、士卒はそれぞれ民家に寄寓し、藩名を「鶴田藩」と改めた。
 元来六万一千の大名であり乍ら、久米北条郡のうち八千三百石余りでやってゆかねばならぬ極めて苦しい立場に陥ったのである。

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 しかし、藩主の居館は此の西御殿の地に新築され、藩主がここに移ったのは明治4(1871)年の6月であった。
けれども、翌月の7月14日には廃藩置県の詔書が出され、続いて松平武聡は藩知事の職を解かれ、召されて東京に移ることとなり、明治4年8月23日此処を出発したので藩主が此の館に起居したのは足掛け3ヶ月間の短期間であった。
 「西御殿」なる名称は「東御殿」に対する地名で、東御殿は現在家畜保健所のある広い屋敷で、鶴田藩はここに藩の政庁を建築することとなり屋敷の造成を終わり、建築に取りかかった頃に廃藩置県となって建築は中止されたのである。
 (西側街道との交差点) 西御殿のあたりになると、どこでどうなったものか備前街道は県道と離れてその左の谷底を南進して桑下の集落に入り、ここをほぼ東西に走る西川街道と直角に交差している。(文:案内板より)

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鶴田(たつた)藩の案内板

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西御殿の階段                  西御殿の西側

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西御殿から見える景色(2016年1月17日撮影)

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緑が青々とした西御殿跡地(2015年7月28日撮影)


西御殿
 神代の十字路からも備前街道は県道に添うてはいるが間に田地をはさんだ左側の山裾の道であって此の道は柄尾谷池に差しかかって始めて右折して県道に吸収されて池畔を進めば、池土堤の右側に貴布祢神社の裏鳥居がある。
 鳥居の前をすぎて県道が右に曲がるあたりの左向うに「西御殿」がある。立派な石垣がめぐらされていて、正面の石段を登ればそこは広い屋敷跡「殉難碑」が建てられており、久米町の重要文化財に指定されている。
 幕末、二回目の長州征伐に際して石見國(島根県)浜田藩主松平右近将監武聡は幕府軍に属して石州口の守備についたが、村田蔵六(後の大村益次郎)の率いる長州軍に大敗し、慶応2(1866)年7月、自ら城に火を放って杵築に、続いて松江(共に島根県)に退き石見國の領地は全部長州軍に占領されたので、藩を挙げて美作國の飛領地、久米北条郡の内17ヶ村へ移動することとなり、藩主は慶応3(1867)年3月26日、里公文中村、大庄屋福山元太郎邸(久米郡大字里公文619番地)に入り、士卒はそれぞれ民家に寄寓し、藩名を「鶴田藩」と改めた。
 元来六万一千の大名であり乍ら、久米北条郡のうち八千三百石余りでやってゆかねばならぬ極めて苦しい立場に陥ったのである。
 しかし、藩主の居館は此の西御殿の地に新築され、藩主がここに移ったのは明治4(1871)年の6月であった。
けれども、翌月の7月14日には廃藩置県の詔書が出され、続いて松平武聡は藩知事の職を解かれ、召されて東京に移ることとなり、明治4年8月23日此処を出発したので藩主が此の館に起居したのは足掛け3ヶ月間の短期間であった。
 「西御殿」なる名称は「東御殿」に対する地名で、東御殿は現在家畜保健所のある広い屋敷で、鶴田藩はここに藩の政庁を建築することとなり屋敷の造成を終わり、建築に取りかかった頃に廃藩置県となって建築は中止されたのである。
 (西側街道との交差点) 西御殿のあたりになると、どこでどうなったものか備前街道は県道と離れてその左の谷底を南進して桑下の集落に入り、ここをほぼ東西に走る西川街道と直角に交差している。(久米町史より)