大石神社宝物殿

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義士宝物殿の由来
 この建物は、大正の初め湊川神社の宝物館として建設されたもので、かつては国宝の法華経奥書を始め、大楠公由縁りの宝物が展観され、昭和二十年の神戸大空襲に遭っても唯一つ戦災を免れた、由緒深い建物である。
面積は約九十平方米、桧材木造千鳥破風屋根入母屋造りの唐破風車寄平屋建てで、屋根瓦は菊水の紋そのままに再現され、内部には大石家に相伝する討入関係遺物を始め、義士由縁りの宝物が展示してある。
先に神門がうつされ、其後またこの建物が移築され、楠公さと大石さんの二大忠臣義士を結ぶ絆は、いよいよ強いものがある。(文:案内板より)

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大石神社宝物殿

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森家の遺品
 森家のことであるから、こうした武のイメージのある遺品が残されている。その中でも比較的よく残っているのが、赤穂藩森家では藩祖とされる森忠政の遺品である。
 森家先祖を祀る大石神社(旧赤穂神社。戦後大石神社に合祀)には主に忠政を中心とした遺品が残されている。こうした藩祖の遺品は場所は不明ながらも赤穂城内で保管され、幕末期の文章ではあるが忠政の具足は二年おきに虫干しされて保管されていた。
 忠政等森家先祖の遺品は桃山~江戸期の優品であり、本稿ではそのなかから本展示に供していない数点をご紹介したい。

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森忠政(1570-1634)
森可成の六男(末子)長可・蘭丸らの弟。通称千丸、諱は長重、一重、忠重などを称した。受領名、官職は右近太夫、美作守、左中将、侍従。官位は従四位下。
 兄長可の遺領を継いだ忠政は、豊臣秀長養女と婚姻、羽柴の姓と「五三桐」の紋を拝領、秀吉の死後は徳川家康に仕えて信濃川中島待城城主に封ぜられ、関ヶ原の戦いの後は美作津山城主となり、壮大な津山城を築いた。
 寛永十一年、将軍家光に従って上洛中、急死。行年64歳。

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錆地塗革製二枚胴具足
 森忠政着用の具足で、文禄の役の際に着用したと云われる具足である。
 兜は鉄地銀箔押の日根野頭形鉢で、眉庇に前立を挿入する一本角元を打つ。前立は不明。
 面頬は鉄地黒漆塗の目の下頬に、鉄地黒漆塗板物三枚の垂を下げる。
 胴は錆地塗革製伊予札を菱綴にした二枚胴である。草摺は革製銀箔押伊予札六間四段を白糸素懸威にする。
 籠手は鎖に鶴丸紋を配し、佩楯には鶴丸紋の据金物を鎖で綴じ付けている。臑当は黒漆塗筒臑当形式。面頬と臑当は別物と思われる。

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(森忠政の胴具と可成の胴具に書いてある鶴が反対を向いているのを発見した)
黒革包畦目綴二枚胴具足(右の写真)
 森家中興の祖可成着用と伝えられるものである。
 兜は鉄地黒漆塗日根野頭形鉢で、天辺に一本角本を付し、鉢の左右にも頭立を固定する角本がある。  頭立は桧板製銀箔押大釘で約1.08メートルもある。横から見ると、とても細く当時の高度な技術が窺える。大釘頭立はこれよりも短いのがもう一枚現存する。この二枚とも本具足の兜と、忠政着用の「黒革包畦目綴一文字頭二枚胴具足」の兜のいずれにも装着できる。従って使用者は同一人と考えられる。 
 『作州記』に忠政兜の立物について「胄前立銀の釘」とあり、銀釘は忠政のものであったことがわかる。
 胴は横矧板を黒皺革包にした縫延胴。草摺は革製錆地塗六間五段で、裾板には鶴丸紋を金で二~三個配す。瓢箪籠手・篠臑当・紺家地鶴丸据金物付鎖佩楯も備えている。 

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黒小札浅黄糸毛引威二枚胴具足
森長直(1673-1722)
 初代赤穂藩主。美作津山藩主長継の十一男で幼名亀之助。のち元禄七年、和泉守長直と改名、五代将軍綱吉に拝顔している。
 元禄十年跡継ぎが絶えて津山森家十八万六千五百石は改易となったが、父や先祖の功により、長継の隠居料二万石認められ、長直が嗣子となって備中を納めた。
 宝永三年(1706)赤穂へ国替、初代赤穂藩主となった長直は赤穂塩の品質向上につとめ、享保三年には八代将軍吉宗から日本一の塩として賞賛されている。享保七年赤穂城にて逝去。行年51歳。

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龍頭兜(森長可所用)

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                        金三団子馬印

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赤穂城請取行列之巻物

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浅野家の狛犬

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法螺貝(森長可所用)              鞍(森長可所用)

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鈴虫の轡(森長可所用)              森家馬印幟・森家先代実録

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おわりに 
 やはり森家というと、武のイメージがある。そして、それを連想させる遺品も残っている。
 森家が赤穂に転封されてから初期の頃は不明な点もあるが、後期の赤穂藩に於いては、慢性的な藩財政の困窮の中で改正や縮小等は余儀なくされたが、藩校設立や修史事業、そして武術など文武ともに盛んであったといえるだろう。それは森家歴代藩主の文芸に対する理解なしには考えられないだろう。こうした背景が、赤松滄洲や神吉東郭など優れた人材を輩出したのである。こうした学者は藩政に参画するようになり、赤穂藩の文芸だけでなく、政局にも大きな影響を与えた。
 また、森家には藩祖忠政ゆかりの遺品が残され、今に伝えられている。藩祖の遺品は歴代藩主並びに家中の精神的な支柱となっただろうことは想像に難しくないし、また忠政の遺品は桃山期のもので、貴重な文物である。赤穂が誇る宝物というべきであろう。
 森家の事蹟や遺品等を通じてみると、そこには森家の津山時代への懐古が強く感じられるのである。
 赤穂藩森家の文武について色々と概観してみたが、本来ならばもっと様々な事項についても述べるべきであろうが、筆者の力量不足でその一端しか紹介できなかった。本展示を契機として森家について今後の研究の進展に期待したい。(文:さとう・まこと 大石神社非常勤学芸員)
(撮影:2015年3月15日)