義士木像法安殿・義士宝物殿別館(大石神社)

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 大石神社の境内にある義士木像法安殿なのですが、ここには神崎与五郎と茅野和助の木造があるとお聞きし、神崎与五郎や茅野和助がどのような姿だったのかを知りたいと思い訪ねてきました。
 説明板によると、「大石神社境内には四十七士の討入り関係遺品、浅野家・大石家に伝わる宝物を展示している義士宝物殿・同別館、義士自刀二百五十年を記念 し当代一流の彫刻家による浅野長矩像を始め四十七義士の木像を納めた義士木像法安殿、大石内蔵助邸長屋門・庭園の四ヶ所が資料館として拝観できる。」だそうです。

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義士木像
 ここに奉安の木像が製作されましたのは義士が切腹してから満二百五十年の昭和二十八年、今から約五十年前にあたります。
 製作にあたっては、帝室技芸員の山崎朝雲先生、芸術院会員、朝倉文夫先生、東京国立博物館 浅野長武館長(浅野本家当主)が世話人となり、当時の著名な彫刻家四十九名を集めて一人一体個性あふれる義士像を刻んでいただきました。
 こちらの木像は全国にある討入り姿の義士像ではなく、史実や逸話をもとに、作者のイメージを加えて義士の日常の姿を彫った人間赤穂浪士ともいうべきもので、浅野内匠頭、大石内蔵助以下四十七士と萱野三平の四十九体が奉安されています。

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 左の像は、元禄14年3月19日の未明、江戸からの早打で凶報を知った、国家老大石内蔵助良雄が、裃に威儀を正し、佩刀を手に沈痛な面持ちで、登城しようと、三の丸なる大石邸の表玄関を出んとする姿である。
 なおこの像は、作者が芸術院会員となった時、記念に製作をしたものが関東大震災で焼失したので、今回新しく彫刻し、昭和28年12月に完成をみたもので、87歳の作者の絶作となった名品である。

 右の像は、内匠頭長矩が勅使御饗応役として、大紋素襖烏帽子に身を正し、着座している姿で、胎内には、本家芸州広島藩主の後裔で、当時の東京国立博物館長浅野長武元侯爵の筆になる銘記が蔵されている。
 又この像は、前後10年の歳月を費し、昭和37年11月3日、作者が文化勲章受賞後、初めて完成をみ、12月14日の義士討入追慕祭の日、この大石神社に奉安された記念すべき意義深い名作である。

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大石主税良金尊像                堀部安兵衛武庸像

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 左の神崎与五郎像は、赤穂開城後江戸に出て、小豆屋善兵衛と名乗る町人に身をやつした与五郎が、吉良邸の門前に店を構え、火事と云っては屋根に登り、雨が漏る、風が吹くと云っては、屋根の上から吉良邸の中を見降ろして、敵情を探っていた苦心の姿である。
 与五郎は、俗説では江戸へ下る途中、箱根の山中で、馬方の丑五郎に無礼ないいがかりをつけられたが、大事の前の小事と『カンザケヨカロウ』の詫証文を書いて謝ったという。

 右の茅野和助像は、大石主税の東下りに従って、江戸に出た和助が、町医者となり、薬箱を手に吉良邸の付近を往来して、敵情を探っている姿である。
 泉岳寺では修行僧白明の求めに応じ『天地の外はあらしな千種たにもと咲野辺に枯ると思へば』の和歌と『世や命咲野にかかる世や命』俳句を書いて渡し、のちお預けの水野監物屋敷で、引見され『日あたりや雪吹のけて梅を先づ』と詠んで、その厚遇を感謝した。(文:説明書より)


義士資料館

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大石神社境内には四十七士の討入り関係遺品、浅野家・大石家に伝わる宝物を展示している義士宝物殿同別館がある。

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義士宝物殿同別館展示風景

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義士宝物殿同別館展示風景(撮影:2015年3月15日)