旧津山扇形機関車庫とは

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旧津山扇形機関車庫
 旧津山扇形機関車庫は延床面積2,527㎡、総工費は11万600円であった。機関車収容線数17は、梅小路機関車庫に次ぐ現存二番目の規模である。躯体は鉄筋コンクリート・フラットスラブ構造で、向かって右の低棟には道具置場、技工長室、修繕室、鍛治場が置かれ、高棟は第1から第4、中棟には第5から第17の機関車収容線が敷かれていた。
屋根高は低棟6,700mm、高棟8,450mm、中棟7,303mmで、第5線と第6線、第11線と第12線の間にはエキスパンションジョントがある。ジョイント部分で中棟は高棟に、高棟は低棟に乗りかかるように設計
されている。エキスパンの役割は温度によるコンクリートの伸縮や地震による揺れの違いを吸収し、巨大コンクリート建造物を崩壊から防ぐことにあると考えられる。背面が広いガラス窓で覆っているのは、黒い蒸気機関車と煤煙によって暗くなりがちな庫内に自然光を取り入れるためである。それが扇形機関車庫の特徴である。
 旧津山扇形機関車庫60ft転車台転車台桁は横枕木仕様でクーパー荷重E33、全長18,280mmの60ft下路プレートガーダ「G2-1」である。転車台は扇形機関車庫が建設される6年前の1930年、電動牽引機と共に設置された。現在の二輪式転車台電動牽引機は1954(昭和29)年に福島製作所が製造したものである。

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DD13形ディーゼル機関車
 日本国有鉄道が初めて製造した入換用機関車である。馬力と共に、製造コストの低減、構造の堅牢さ、保守の容易さなどを図り好評を博した。その後も改良が重ねられ、1958(昭和33)年の第1次形15両から1967(昭和42)年の第19次形52両まで416両製造された。第19次形には重連形の629~649号21両と、非重連形の345~375号31両がある。DD13-638は2015(平成27)年3月まで、大阪市の交通博物館で保存展示されていた。

入換動車10t貨車移動機
 人力に頼っていた小規模入換作業を機械化するため1950年代量産され、中小規模の貨物取扱い駅や車両工場で使用された。分類上は車両ではなく機械として扱われ、入換動車とも呼ばれる。保存機は協三工業で1974(昭和49)年に製造された蓄電池動力機で、全長5,250mm、全幅2,504mm、全高2,620mm、自重10トン、機関形式DS50A、出力110ps。2011(平成23)年3月、後藤総合車両所から
津山にやってきた。

DD15形ディーゼル機関車
 DD13形ディーゼル機関車をベースに、1961(昭和36)年から1972(昭和47)年まで50両製造された除雪用機関車である。前後に大型スノープラウを装備し、折り返し駅での方向転換を不要にした。ラッセル装置を外しDD13形同様、入換機として使用されたこともある。DD15-30は、2010(平成22)年度まで西日本旅客鉄道金沢支社福井地域鉄道に配属していた。

DD16形ディーゼル機関車
 軌道構造の弱い簡易線に投入する機関車は、軸重が12トン以内に制限されている。そのためDD13形やDE10形を入線させることができなかった。そこで、C56形など軽軸重蒸気機関車と置き換えるために開発されたのが、全長12mのDD16形である。DD51形初期形のエンジンDML61形を出力800PS/1,330rpmに抑え、最高速度を75km/hとした。25km/hで走行した場合、10‰で約400トン、25‰170トン、33‰では100トンの牽引が可能である。1972(昭和47)年から1974年の間に65両製造され、大糸線を皮切りに、四国を除く全国に配置された。そのうちの4両は1979(昭和54)年から1983年にかけて除雪用に改造され300番台となり、飯山線と大糸線で使用された。DD16-304は2015(平成27)年8月、金沢総合車両所から津山に来た。

DD51形ディーゼル機関車
 動力の近代化と、幹線の蒸気機関車廃止を目的に日本国有鉄道が開発したディーゼル機関車で、1962(昭和37)年から1978(昭和53)年までに649両製造された。運転速度でC61形蒸気機関車、牽引力ではD51形を凌駕する性能を持ち、大型機関車には珍しい凸型の車体を持つ。1987(昭和62)年の国鉄民営化後、593号機以降の完全重連タイプ259両が継承された。DD51-1187は2007(平成19)年8月、米子市の後藤総合車両所で現役を退いた。

DE50形ディーゼル機関車
 北上線、高山本線、伯備線などで重量貨物列車を高速運転させるために設計された。2,000馬力のV16シリンダーDMP81Z形エンジンと、DW7形ハイドロダイナミックブレーキ付液体変速機1組を搭載し、最高時速95kmを誇る。DE51-1はプロトタイプとして1970(昭和45)年、日立製作所で1両のみ製造された。中央西線塩尻・中津川間で活躍した後1973(昭和48)年、岡山機関区に配属され伯備線の貨物列車を牽引した。1982(昭和57)年伯備線電化完成、1986(昭和61)年廃車、2002(平成14)年旧津山扇形機関車庫に移送された。

DD16形ディーゼル機関車
 軌道構造の弱い簡易線に投入する機関車は、軸重が12トン以内に制限されている。そのためDD13形やDE10形を入線させることができなかった。そこで、C56形など軽軸重蒸気機関車と置き換えるために開発されたのが、全長12mのDD16形である。DD51形初期形のエンジンDML61形を出力800PS/1,330rpmに抑え、最高速度を75km/hとした。25km/hで走行した場合、10‰で約400トン、25‰170トン、33‰では100トンの牽引が可能である。1972(昭和47)年から1974年の間に65両製造され、大糸線を皮切りに、四国を除く全国に配置された。そのうちの4両は1979(昭和54)年から1983年にかけて除雪用に改造され300番台となり、飯山線と大糸線で使用された。DD16-304は2015(平成27)年8月、金沢総合車両所から津山に来た。

キハ33形気動車
 キハ33形は1988(昭和63)年、鳥取県米子市の後藤総合車両所で2両製造された。50系客車オハ50形に、キハ185系と同じDMF13HSエンジンを搭載した改造車両である。客車にエンジンを積んで気動車に改造する試みは主に、1960(昭和35)年から1963(昭和38)年にかけて行われた。50系客車は1977(昭和52)年から1982(昭和57)年まで製造された通勤通学用の客車である。キハ33-1001は2010(平成22)年3月、鳥取鉄道部西鳥取車両支部から運ばれてきた。

キハ181形気動車
 非電化急勾配路線への投入を目的に1968(昭和43)年に開発された特急用気動車である。DML30系エンジンを搭載し1972(昭和47)年までに158両製造された。最高時速120kmを誇る。中央西線の「しなの」でデビューし、伯備線「やくも」、奥羽線「つばさ」、大阪・山陰間「はまかぜ」、土讃線「南風」業務など全国で活躍した。2012(平成24)年には15両がミャンマー国鉄に譲渡された。キハ181-12は2011(平成23)年3まで京都総合運転所に配属され、東海道・山陽。播但・山陰線で特急「はまかぜ」に使用されていた。

キハ58形・キハ28形気動車
 共に1961(昭和36)年に登場した急行列車用キハ58系に属する。キハ58系気動車は1969(昭和44)年までに1,823両製造されたが、それは国産気動車における最多記録である。キハ58形にはDMH17Hエンジン2基、キハ28形には1基と冷房専用エンジンが搭載されている。キハ58-563とキハ28-2329はどちらも1964(昭和39)年の製造である。因美線での「みまさかスローライフ列車」業務を最後に2011(平成23)年引退した。

キハ52形気動車
 キハ20形のエンジン2基を搭載する勾配区間用気動車で、1,100両以上製造されたキハ20系の一族である。製造期間は1958(昭和33)年から1966(昭和41)年で、初期形と100番台の後期形とに分類される。キハ52-115は2010(平成22)年3月まで大糸線で活躍した。

D51形蒸気機関車
 1936(昭和11)年から1945(昭和20)年の間に、蒸気・ディーゼル・電気機関車で最多となる1,115両製造され、日本全国で活躍した。初期形、標準形、戦時形に区分され、初期形の設計には0形新幹線や特急こだま号形151系電車、3シリンダー蒸気機関車C53形などを生み出した島秀雄が携わった。2号機は、煙突、給水温め機、砂箱が縦一列につながった姿から、「なめくじ」とも呼ばれる初期形95
両の仲間である。量産された標準形からは、給水温め機は煙突の前に横向きに置かれた。2号機は2014(平成26)年4月まで大阪市の交通科学博物館に展示されていた。津山に初めてやってきたデゴイチである。

DF50形ディーゼル機関車
 日本国有鉄道によるディーゼル機関車の開発は、第一次世界大戦の賠償の一部としてドイツから届いたDC10形とDC11形に始まる。DF50形は国産第一号ディーゼル機関車DD50形の後継機として、1957(昭和32)年から1963(昭和38)年までに137両製造された。エンジンはスイスのSulzer社とドイツのMAN社から技術提供を受け、国内で生産された。137両のうち64両がSulzer系、73両はMAN系で、最高速度は90km/hであった。電気式ディーゼル機関車の標準形となり、北海道以外の亜幹線で優等列車を牽引した。DF50-182015(平成27)年3月まで、大阪市の交通博物館に保存展示されていた。

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扇形機関車庫とは
 日本初の扇形機関車庫(Fan Shaped Engine Shed)は1871(明治4)年、東京の新橋駅に建てられた。現存最古の扇形機関車庫は北海道小樽市総合博物館にある1885(明治18)年建造の旧手宮機関車庫で、1907(明治40)年建設の扇形機関車庫と並んで建っている。日本で扇形機関車庫が本格的に造られるようになったのは1903年に竣工した山陽鉄道姫路第二機関車庫からだと思われ、フランスのアンネビックが設計し、1911年に完成した静岡県の国府津機関車庫から鉄筋コンクリート造になった。それまでの建築資材は木、石、煉瓦で、小樽の2棟と姫路第二は煉瓦造であった。
 鉄道創成期の明治時代中期までに建設されたのは矩形機関車庫(Rectangular Engine Shed)であったが、機関車が大型となり保有両数が増えた鉄道発展期、特に1920(大正9)年の鉄道省発足からは扇形機関車庫が主流になった。欧米に建設された円形機関車庫(Round Engine Shed)が日本国内に建設された記録はない。1906年に公布・施行された「鉄道国有法」により17の私設鉄道が国家買収され、国有化された車両や設備の標準化、制度の統一化が進められた。1924(大正13)年頃には扇形機関車庫の設計標準化作業も始まり、1932(昭和7)年、「扇形機関車庫設計標準図」が完成した。それ以降全国の主要駅に鉄筋コンクリート造扇形機関車庫多数が建設され、岡山県では1921年岡山駅、1928年新見駅、1936年津山駅に造られた。
 日本国有鉄道の蒸気機関車が全廃された1976(昭和51)年3月以降、蒸気機関車庫は次々とその姿を消した。2011(平成23)年に産業考古学会が行った調査では、扇形機関車庫14棟と矩形機関車庫4棟が存在していることがわかった。現存扇形機関車庫のうち、手宮機関車庫の2棟が重要文化財で鉄道記念物、京都市の梅小路機関車庫は重要文化財で準鉄道記念物、静岡県の天龍二俣鉄道天龍二俣機関車庫と大分県の豊後森機関車庫が登録有形文化財である。手宮機関車庫2棟、福島県の会津若松機関車庫、天龍二俣機関車庫、梅小路機関車庫、旧津山扇形機関車庫、豊後森機関車庫は経済産業省の近代化産業遺産で、旧津山扇形機関車庫は西日本旅客鉄道の登録鉄道文化財である。矩形機関車庫である山形県の新津機関車庫と熊本県の人吉機関車庫も近代化産業遺産に認定されている。

旧津山扇形機関車庫
 旧津山扇形機関車庫は延床面積2,527㎡、総工費は11万600円であった。機関車収容線数17は、梅小路機関車庫に次ぐ現存二番目の規模である。躯体は鉄筋コンクリート・フラットスラブ構造で、向かって右の低棟には道具置場、技工長室、修繕室、鍛治場が置かれ、高棟は第1から第4、中棟には第5から第17の機関車収容線が敷かれていた。屋根高は低棟6,700mm、高棟8,450mm、中棟7,303mmで、第5線と第6線、第11線と第12線の間にはエキスパンションジョントがある。ジョイント部分で中棟は高棟に、高棟は低棟に乗りかかるように設計されている。エキスパンの役割は温度によるコンクリートの伸縮や地震による揺れの違いを吸収し、巨大コンクリート建造物を崩壊から防ぐことにあると考えられる。背面が広いガラス窓で覆っているのは、黒い蒸気機関車と煤煙によって暗くなりがちな庫内に自然光を取り入れるためである。それが扇形機関車庫の特徴である。

旧津山扇形機関車庫60ft転車台
 転車台桁は横枕木仕様でクーパー荷重E33、全長18,280mmの60ft下路プレートガーダ「G2-1」である。転車台は扇形機関車庫が建設される6年前の1930年、電動牽引機と共に設置された。現在の二輪式転車台電動牽引機は1954(昭和29)年に福島製作所が製造したものである。

津山駅
 明治政府は1872(明治5)年、新橋駅(現在の新橋駅とは異なる)と神奈川県の横浜駅(現在の桜木町駅)の間に、イギリスの技術を借りて日本初の旅客鉄道を開業させた。それ以降鉄道は、明治政府が推進する富国強兵策の旗手として全国に網の目のように張り巡らされた。岡山県初の鉄道は1891(明治24)年に開業した山陽鉄道で、岡山県南を東西に横断した。二番目に開業したのが1898年の中国鉄道津山線岡山市(現存せず)・津山(現在の津山口)間であった。岡山県と鳥取県では1889年から、瀬戸内海側と日本海側を結ぶ山陰山陽連絡鉄道敷設を巡る民間運動が盛んになり、岡山県北での勢いは県南を凌駕するものとなった。中国鉄道会社も当初岡山から鳥取県の米子までを計画したが、津山・米子間を実現することはできなかった。山陽鉄道会社は1906(明治39)年、中国鉄道会社は1944(昭和19)年国有化されたが、岡山県の鉄道は私設鉄道から始まった。明治時代には中国鉄道吉備線岡山・湛井(総社市)間と官設鉄道宇野線岡山・宇野間が宇野港と香川県の高松港を結ぶ宇高連絡船と共に開業した。山陰山陽連絡鉄道が開業したのは伯備線倉敷・伯耆大山間が全通した1928年であった。つづいて1932年、因美線鳥取・津山間が全通し、作備線(現在の姫新線)津山口・津山間と中国鉄道岡山・津山口間を経由する鳥取・岡山間が1本のレールでつながった。旧津山扇形機関車庫が津山駅構内に竣工した1936年は、姫新線姫路・新見間の全通により、津山駅が岡山県北の交通の要衝となった年である。

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(文:みまさかローカル鉄道観光実行委員会パンフレットより)