忠臣蔵四十七義士・神崎与五郎則安について

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脱藩藩士を厳しく批判した「赤城盟伝」を著した赤穂藩随一の酒豪
神崎与五郎則休(1666~1703)
志深浅働次47士中37番目
・酒好きで、ついたあだ名が「燗酒よかろう」(講談)
・短歌を詠み、俳句を作り、江農舎竹平と号す。
・「赤城盟伝」を前原伊助と共に記した。
・吉良邸近くに、前原と共に米屋を開き、探索にあたる。
生年・生国 寛文6年(1666)・美作国
役   職 徒目付、郡目付
行   年 38歳(元禄16年2月4日、切腹)
もと津山森家の家来だった。文武両道に秀でていただけでなく、俳句が得意でいくつか残されている。扇子や小物を売り歩いて吉良邸を探索した。前原宗房とともに「赤城盟伝」を著した。

「赤城盟伝」の中で脱落者たちを糾弾し、筆誅を加えた激しい性格
 祖先は津山の森家に仕えていた。与五郎の父・半右衛門光則のときに、この森家に家督相続をめぐってお家騒動がおき、家名断絶となった。
 なにしろ大名の減地改易没収は、徳川政府の最重要政策であった。領主に嗣子なき場合、また領主に急死変死がある場合は、直ちに家名断絶となった。それで大名家としては何がなんでも「お世継ぎ様」が必要となり、それでしばしばお世継ぎ争い、お家騒動が起きていた。森家にしてもこの例外ではなかった。
 半右衛門は浪人となり、作州勝田郡黒土村で寺子屋師匠をしているとき、赤穂にやってきて浅野家に仕えた。五両三人扶持で召抱えられていたが、茅野和助、横川勘平と同格である。この下は三村だけで、その下は足軽である。つまり与五郎は最下層の身分であった。
 役割も藩主の行列の先駆けやしんがりをつとめるもので、とくに君恩が深かったというわけではない。あえていうなら、武士の義を貫くためであったのだろう。

【エピソード】
 与五郎といえば、前原伊助と「赤城盟伝」を述作したことで有名だ。これは忠義の人と不忠義者を評論しているもので、後世にどういう人が卑怯、腰抜けであったかを知らしめるために書き残したものだ。
 これによると、内匠頭が上野介に抱いていた憤懣は一朝一夕のものではなく、殿中で刃傷に及んだのは一時的な短慮ではないと主張している。伝奏屋敷でも斬ることはできたが、勅使の御前を憚り、殿中になったと力説している。
 ついで与五郎は、脱党者たち一人一人に筆誅を加えている。
「急にのぞみ、しこうして義を棄てて去り、恩をなげうって退く者68人」と始まり、裏切者を許していない。
 江戸家老の藤井又左衛門は、小人であり、同安井彦右衛門は言を左右にして諸士を陥れ、家老の大野九郎兵衛は深姦邪欲と続く。
 また河村伝兵衛、進藤源四郎らに対しては「忠義を抱いて金石のごとしといえども、節に臨んでこれを忘る。あたかも雪霜の旭光に向かうがごとし」と、きびしく批判している。

講談で有名な与五郎の「吾妻下り堪忍袋」は虚説
 事変のとき、与五郎は赤穂にいたが、内蔵助に命じられて江戸へ下った。
 この旅途中の近江国逢坂では、
   逢坂や山桜戸の開くより
   関とは花の名に匂うらん
 また、芦ノ湖を眺めながら、
   富士の領を見つつ越ゆれば花に明るく 
   函根の山に残る白雪
 と、和歌を詠んでいる。
 この与五郎の東下りが、歌舞伎や浄瑠璃で知られる「吾妻下り堪忍袋」である。その話とは、与五郎が箱根越えのときに、馬喰の丑五郎に難題を吹っ掛けられたもの。義挙の前の小事と堪忍し詫び証文を書いた上に、五両の酒代を与えて、箱根を越えていった。
 しかし和歌を詠みながら箱根を越えたのは事実であるが、馬喰と揉めたという事実はない。
大高源五が伊豆三島で馬方にゆすられた話も時として混同されているが、どちらも虚説だ。
 江戸に出た与五郎は、上杉の中屋敷近くの麻布谷町で、美作屋善兵衛と称して、扇子や団扇などを売る店を始めた。やがて岡野金右衛門も出てきて、美作屋善兵衛の舎弟・善七と名乗り、ともに上杉邸、吉良邸の探索を始める。
 与五郎たちが苦心したのは、上野介の面体を知ることだった。そこで与五郎は身なりをととのえると、上野介の外出時に路上で土下座の挨拶をした。すると駕籠がとまり、「どちらの御家中か」と相手が顔を出した。かなりの老人なので「松平家中でございます」と、答えながらその顔をしっかりと見覚えた。いよいよ討ち入りの日、果たして上野介が在宅しているのか与五郎は調べに出かけた。
 薬商人に身をやつして吉良邸に近付くと「見なれぬ商人だな。怪しい奴だ」と見回りの家士に見咎められ、そのうち大ぜいの足軽に取り囲まれて「怪しい奴め「二度とこれないようにしてやろう」と寄ってたかって殴るやら、蹴るやらでたたきのめされた。しかし、与五郎は手出しできない。ただ嬲られて、路上に放り出された。
 後、何刻か後には討入る邸である。与五郎はあせった自分を反省したという。ところがこれも作られた話である。


義士中随一の大酒飲みでついたあだ名が「燗酒よかろう」
【史実】
●与五郎は浅野家家臣・河野九郎左衛門の女・かつを妻に迎え、赤穂郡那波に居住していた。ここで句作したのが「那波十景」である。
すなわち、
 神山や松はすねつつ花の雲
 ずんぶりと淵に入らてと蛍の光
 海山を月の限りや岡野岩
などである。与五郎は妻を大事にしていたが、江戸へ下るに際し、悲壮な思いを那波に残している。この妻女にあてた手紙に「武士の妻たるものが夫恋しさに取り乱すことがあってはみっともないから、よくよく心静めて、親へ孝養を尽くして生きなさい」とある。そして続けて「自分としてもそなたを恋しく思うがこれ(義挙)は人としての務め」と論し、心弱くてはいけないと説いている。

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●また、美作津山にいる舎弟の藤九郎に遺言状をしたためている。「されば我らこと、もはや最期に及び候。貴殿居られ候故、我ら心底大丈夫にて、この上は随分孝心いたされ給はるべく候」から始まり、仇討ち決行後の後始末、そしてまた両親と対面させていない妻女のことを頼んでいる。

●与五郎は大酒のみである。揮名も講談では「燗酒よかろう」という。
水野邸にお預け中も、与五郎だけは酒を飲んでいいことになっている。これは吉良邸討入りで打撲を負い、薬湯が支給されたが、典医に「薬湯より、お酒をいただきたい。打ち身にはお酒が効く」ともちかけ、認められたのである。与五郎に毎晩、晩酌がついたのは事実である。

●ちなみに、扇子売りは役者たちが内職にする仕事で、たぶん与五郎も美男子であったと推察される。

●討入りは表門組、武器は半弓である。

●最後は稲垣左助の介錯で果てた。ただ一つ与五郎は切腹に際し大きな不満を残しながら死んで行った事実も紹介する。
それは、武士が切腹するときは、位や格あるいは縁の高い順に切腹するのが習わしであった。ところが何を間違えたか、水野家では三村次郎左衛門が先に呼ばれて、切腹して果てた。一番最後になった与五郎は、水野家の家士に対して「いささか閉口でござる」と不満を残して切腹したのである。


(文:忠臣蔵四十七義士全名鑑【完成版】特別監修:財団法人中央義士会)(許可済み)(撮影:2015年3月15日)


神崎与五郎の両親の墓神崎与五郎と勝間田宿神崎与五郎が妻に宛てた直筆の手紙神崎与五郎の木像神崎与五郎と箕作家神崎与五郎則休の生母の墓徳守神社と与五郎の歌碑