津山城跡で行われた博覧会

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姫新線全通記念・産業振興大博覧会が津山市主催で昭和11年3月26日~5月5日の期間に行われた時の記念写真です。この写真は第一会場の写真と書いてあります。(上記写真の提供は保田扶佐子さん)


 津山城は明治維新後の廃城令により建物は取り壊されてしまいました。しかし、その後の保存運動により城跡は「鶴山公園」として整備され、また、福井純一氏などの尽力により、桜の名所としても有名になり、津山のランドマークになっています。
 現在でも桜の季節には「津山さくらまつり」が開催され、また、その他にも数多くのイベントの会場として使用されていますが、過去には、津山で3回行われた博覧会の会場にもなっていました。巾でも昭和11年(1936)に行われたものでは、元々の形とは全く違うとはいえ目玉として天守閣が再建されています。その天守閣の写真などが様々な機会などで紹介されており、ご存じの方も多いと思いますが、博覧会の様子を知る方は少なくなっています。
 そこで、ここでは当時の古写真や記録を基に、再建天守閣以外の博覧会の様子についてご紹介します。(文:津博No.84より抜粋)

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会場は津山鶴山公園               会場全景及び夜の天守閣

(上記写真の提供は保田扶佐子さん)


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                        写真1

会場配置図(『津山市主催姫津線全通記念産業振興大博覧会並二協賛会誌』より)

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写真2                     写真3

博覧会の概要
 この博覧会は名称を「姫津線全通記念産業振興大博覧会」といい、姫津線(現JR姫新線津山~姫路間)の全通を契機に津山の飛躍を期する
目的で、昭和11年3月26日から5月5日の期間で行われました。会場は鶴山公園一帯でしたが、メインの会場は津山城跡三の丸から現在の津山文化センター手前の桜の馬場でした。このメイン会場を二つに分割し西側(会場配置図のピンクの部分)を「第一会場」、東側(会場配綬図の青色の部分)を「第二会場」としていました。
会場の様子
 本稿では、写真1から5までの5枚の写真を基に、会場の様子を順路に沿って見て行きます。まず、写真1は正面入口に作られた門です。この門をくぐった通路には広告塔が立ち並び、その道を進み、突き当りを左に曲がると第一会場の入口になります。そして、第一会場を進むと、中国風の建物である写真2の台湾館が見えてきます。次に、その先の突き当りにあるこの博覧会の題名にもなっている「産業」について展示している産業本館一帯を見学します。

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写真4                     写真5

写真3はこの区画を写したもので農林機械館の建物が見えます。三の丸に登ると「電気館」、「お化け館」、「満州館」などを見て第一会場を後にし、次の第二会場に入ります。すると昔話にでてくる竜宮城のような建物の写真4の海女実演館があります。その先には写真5に写っている国防館と朝鮮館がありました。鶴山館は明治師年にこの国防館がある場所に移築されています。したがって、この建物は鶴山館に戦車の形の飾り付けなどをして利用したものと思われます。こうしてメイン会場の第一・第二会場を見終わると博覧会の展示館は終了し、その後は二の丸、本丸などの公園内を散策し、協賛会が建築した天守閣の郷土館を見学するというものが主な順路になっていました。
世相を反映した展示館
 この博覧会が行われた昭和11年は日中戦争が始まる前年に当たり、当時の世相を反映した展示館が作られていました。当時植民地であった台湾館と朝鮮館、実質的に日本の影響下にあった満州国についての満州館、そして軍事について展示をしている国防館などです。これらの展示館の誘致活動は大変熱心に行われました。台湾館、朝鮮館、満州館などについては、直接、またはあらゆるつてを使って各総督府などに陳情を行い、誘致が決定すると「事務局は凱歌を揚げた」という喜びようであったことが、この博覧会の記念誌である『津山市主催姫津線全通記念産業振興大博覧会並二協賛会誌』に記されています。この記述から、これらの展示館は国から政策として押しつけられたのではなく、開催者側が自ら必死に誘致していることがわかります。この時代、このような国威発揚を促す展示館は、一般市民にも受け入れられ、集客が見込めるものになっていたようです。
姫津線のもう一つの終点である姫路で同時期に行われた博覧会が「国防と資源博覧会」であったことを見ても、当時の博覧会などの催し物では一般的な傾向であったのかもしれません。
おわりに
 この博覧会の前、大正6年(1917)に津山で行われた博覧会は「津山産業博覧会」という名称で、同じく産業をテーマにしたものでした。しかし、大正の博覧会では、産業品を展示する展示館が4館と余興館、日光模型館などと、国威発揚を促す展示館は見てとれません。それから19年後に行われた昭和11年の博覧会では、その内容を見てみても、時代が確実に戦争へと向かっていることがうかがわれます
(上記写真1~5:江見写真館蔵)(文:津博No.84より抜粋)


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別件で、一緒に入っていたのは赤坂離宮と浦富名勝の写真。