「隠岐帝祭」表敬訪問をしてきました。

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21916年(平成28年)10月17日後醍醐天皇の流刑地隠岐島で恒例の「帝祭」が開催されました。同じ後醍醐天皇をテーマにして、「さら山時代祭り」を開催しているさら山時代祭り実行委員会の面々16名は、昨年時代祭りにご参加いただいた帝祭実行委員長松浦会長へのお返しの意味もこめて、16名の大部隊で隠岐島に降り立ちました。
 2年に一度行われる「帝祭」は鏡開き・餅撒きから始まり、子ども神輿や御所車行列、国賀ドント節踊り大会や抽選会、フィナーレは花火大会と盛り沢山の内容で開催されますが、当日は生憎の雨模様でいま一つの盛り上がりでした。
 イベントのオープンに先立って行われた今回初回の「後醍醐天皇サミット」には、地元西ノ島町を初め、大山町、琴浦町、津山市等が参加して、賑やかに開催されました。
 「隠岐の島」宣言も満場一致で採択され、今後も「後醍醐天皇」をテーマにしたサミットをいき長く継続していくことを、参加者一同で確認しました。

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隠岐の島に到着                  第1回 後醍醐天皇サミット2016

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雨の為に、「御所車行列」は屋内で開催され、時代衣装を身に纏って、勢揃いしました。津山からの参加者も児島高徳に扮して歓声を浴びました。

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全国から隠岐に留学している高校生や、フランスや台湾から研修に来ている留学生も大挙出演です。

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特別席で歓談するさら山時代祭りの面々。    オープニングの餅撒きにも参加させていただきました。

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小雨を突いて海上から打ち上げられた花火。

黒木御所
 後醍醐天皇は資性英邁、後鳥羽上皇の御意思を継承、鎌倉幕府を討滅して、日本の姿を延喜天暦の御代に復そうとの御雄図は空しく挫折し、時の執権職北条高時の為、この丘陵(天王山)に配流されました。
 天皇は京人の「正しき一天の主を下として流し奉ることのあさましさよ、武家の命運今に尽きなん。とはばかるところなくいう声巷に満ちて、只赤子の母を慕うが如く泣き悲しむ」中を元弘2年(1332年)3月7日(御歳45)京を御出発、翌月21日この山上に隠岐判官佐々木清高のしつらえたる黒木御所に着御になりました。

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 天皇御在島約1年、楠正成等勤皇の士続々外に起こり、幕府の形勢日々に非となったので、元弘3年閏2月24日未明、海士村の上村を首め当地豪族の協力により黒木御所を御脱出、此処より西方三軒ばかりの美田字宮崎の浦(現在の小向)より御乗船、伯耆の国名和湊に御着陸し、名和長年に奉ぜられ船上山の御幸、翌年(1334年)建武中興の鴻業を御達成になりました。
 即ち、当黒木御所は建武中興発祥の聖地であります。

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焼火神社
航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた。本殿・通殿・拝殿からなる社殿は国の重要文化財に指定。

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小泉八雲に映った黒木御所
 小泉八雲は当地へ明治25年に妻セツと訪れた。当時の様子を後に「まだ知られざる日本~伯耆から隠岐~」で記しており、その当時を知る貴重な資料となっている。どうか八雲の見た情景を感じていただきたい。
 帝の神社は入り江の端の黒木山と呼ばれる山の頂にある。山は高い松でおおわれ、道は険しく、決して滑らないように用心して草履をはくことにした。社は3フィートばかりの小さな木のお宮で、年を経て黒くなっていた。すぐ近くの藪にはそれよりずっと古い他のお宮の遺構があった。二つの大きな石が荒削りのまま何の銘も彫られず、神社の前置かれていた。社の中をのぞくと、もろくなった金属の鏡と竹の串につけられた汚れた御幣、二つの小さな神酒徳利、神道の赤い素焼きの酒器と一厘銭が見えた。他には何も見えずただ海岸と山の嶺が、巨大な松の幹をぬって聖なる影のなかに射し込んでいる暖かい青い光の輝きのなかでいかにも楽しげに垣間見られるだけであった。
(八雲会会長 銭本健二島根大学教授) ※明治日本の面影/平川裕弘編集(講談社学術文庫より)
(文:写真提供:佐良山支部)