宗道神社(鍛治町)

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 城主森公は慶長8年(1603)美濃の関鍛冶から刀匠景兼長右衛門を統領とする一門の鍛冶を同伴して入封し、城下のほぼ中央に鍛治町をつくった。
宗道若宮とも称し、当初洞は津山城の南庭に梨樹が一株あるだけであった。宏、政が築山をするため樹下まてホ地を掘ったところ、一匹の青蛇がとくれろを巻いて動ずる様子もなかった。
忠政は即日梨樹を山北村八子の八幡宮の境内に移して把り、その後、宝麿9年(1759)鶴山八幡より此地に遷された。もと人家の裏に把つであったのを、明和6年(1769)社地を広げ参道を設け神門及び鳥居を建立し、鍛治町並びに住民の鎮守とした。又、古代鍛冶部の租神である天目一箇神も祭神としている。
当神社には斉藤家四代平井茂一郎藤原兼景が、宝暦11年(1761)に奉納した鎗(やり)が今も大切に保存されている。
所在:津山市鍛治町 祭神:素戔鳴尊(すさのうのみこと〉、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
創建:慶長年間(1596~1615)以降 祭礼:夏祭7/20、秋祭10/最終日曜
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年11月30日撮影)

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鍛治町(森氏の入封以来、刀鍛冶と鍛冶職人が多く住んだ町なので、鍛治町と称したとされる。実際、江戸時代を通じて、数多くの刀鍛冶や鍛冶職人が済んでいた。刀鍛冶は、武士の需要を満たすためこの地で作刀し、兼景長右衛門をはじめ、兼景宗左衛門・新五左衛門らの名工を輩出した。

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鍛治町宗道神社由緒
 慶長八年(1603年)森忠政(森蘭丸の弟)は美作国十八万六千五百の国主に任じられ、翌慶長九年から十三年の歳月をかけて鶴山に築城した。城主忠政は入封の際、美濃の関鍛冶から刀匠景兼長右衛門を統領とする一門の鍛冶を同伴し、城下のほぼ中央に当たるこの土地に鍛治町をつくった。宗道神社は宗道若宮と稱し、初めは鶴山(津山城)の南庭にあったが、祠は絶えて久しくただ梨樹が一株有るだけであった。忠政が築山をつくるため樹下まで地を掘ったところ、一匹の青蛇がとぐろを巻いて動ずる様子もなかった。忠政は、即日梨樹を山北村八子の八幡宮の境内に移して祀った。その後、宝暦九年(1759年)宗道神社は鶴山八幡より此地に遷された。もと人家の裏に祀ってあったのを、明和六年(1769年)社地を広げ参道を設け神門及び鳥居を建てた。当神社は素戔嗚尊を奉斎して鍛治町並びに住民の鎮守として今日まで崇敬されているものである。又、宗道神社は天目一箇神も祭神としている。この神は古代鍛治部の祖神である。当神社には斉藤家四代平井茂一郎藤原兼景が宝暦十一年(1761年)に奉納した鎗が今も大切に保存されている。(文:石碑より)

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宗道神社の拝殿

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燈籠