そば粉聖人 遍照院是空法師(美作市)

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そば粉上人(遍照院是空法師-高木蜂次郎)
 英田郡美作町殿所に嘉永4年(1851)に生まれた遍照院是空法師(大正7年入寂)は、そば粉上人と称えられている。上人は、19歳のある夜霊夢を感じ信仰の道に入ったといわれ、発心以来五穀を絶ちそば粉に漬物のみ食べ、また一切の火気を断って風呂に入らず水ごりをとるといった、常人を離れた荒修行を続けた。
 難病患者に対しては、わが身が代わってその苦痛を受けると祈祷し、自分の指を切断していた。入寂時満足な指は親指一本だけであったという。勝央町にも当時植月、小矢田にたびたび訪れており、上人の功徳により立ち直ったという患者が多い。
 上人の高徳を慕い、その後権田甚四郎らの人びとによって城山(小矢田)の登り坂に、奉唱大師講、大日如来その他の板碑が建立されている。その隣に上人を供養する堂宇が建てられた。(当時の堂宇は破損し新しく小さな祠がつくられている)また供養とは別に上人の面影を山田照雲(一刀彫)が彫刻している。「昭和3年5月戸倉山勧請、辺照院是空師 哲刀彫」と記されている。(戸倉山勧請は誤記とおもわれる。この山は城山である)
(文:勝央町史より)(写真:2016年12月10日撮影)

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聖人道の正面にあったもみじの木には少し遅めの紅葉が綺麗でした。

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聖人堂                        

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遍照院是空法師は、そば粉聖人と称えられている。

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阿弥陀堂が傍に在ります。

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すぐ近くを通るのは、新しく開通した美作岡山道路です。

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附近の景色です。


そば粉聖人 遍照院是空法師
 遍照院是空法師は、そば粉聖人と称えられている。
聖人は嘉永4年(1851)いまの美作市殿所に生れ、高木蜂次郎と命名。聖人の成長時代は、江戸末期・明治の激動がおしよせてきた。その頃は農業に従事していた。
明治3年(1870)霊夢に感じて20歳にして仏門に入った。以来戒律として煮焼したものを食べず、そば粉のみを常食とした。身に法衣をまとい、野に住み或いは山に寝て丸いあじろ笠をかぶり托鉢修行の旅をつづけた。
寒中も冷たい水で身を洗ぎ、家に宿るとも風呂に入ることをしなかった。
 この奇行の僧侶は南は四国、北は因幡に、西は九州、東は東京地方にと日本国内の仏閣を廻って山門の鐘を撞き、仏法常薬、衆生安穏を念誦した。
 明治5年11月には高野山に登り寒30日間の荒行を終え、再び諸国を行脚し難病で苦しむ人々には己の身を犠牲にし、指を切り落としてその病の全快を一心に祈念した。こうした奇行によって数多くの人に煩悩から苦を抜き楽をあたえ、数々の奇蹟を生んだのである。
明治36年4月、齢54歳にして高野山で得度し僧籍をもった「是空」は高野山管長が、これを授けた。
 聖人はさらに日清、日露の両戦役に指一本ずつ切断し、身をもって勝利の祈念をした。こうした祈りの甲斐もあってか、我が国は空前の大勝利を得た。
 つづいて明治天皇の御病気篤しと知るや、至心を披歴し身代わりのしるしとして指一本切り落して鮮血に染まった苦痛に堪えながら合掌し、ひたすらみかどの御祷白を申し上げたという。
 大正時代の日露戦争始まるや、更に残った拇を切って両国の平和を求めて祈念をし、なお老いの身をいとわず雨月風雪に耐えて衆生さいどをつづけた。
 このように聖人は、そば粉と漬物汁で精進に徹し、色あせた法衣をまとい四十数年間仏道を説き巡錫をかさねたが、年が深み老弱となり、命旦夕に迫ると、自身すでに死の近づくを知り、親族知己の人々を集め生身のまま棺に入れさせ次第に冷たくなってゆく体温を意識するもののように座ったまま静かに人生を終わった。このような弥陀入りは、仏道に生きた人であってこそなし得たであろう。入寂は大正7年(1918)6月9日、享年68歳であった。そのとき指は右の拇一本だけ無事であった。篤行と仏への道を全うした聖人みんなが惜しんだ。
美作市長内の長正寺住職は、遍照院法師の五字を諡りねんごろに読経をし、墓山に手篤く埋葬をした。
 遍照院是空法法師の他界を伝え聞いた近郷の人は時を経ずして法師の徳行を慕い、そば粉聖人と仰ぎその冥福を祈って墓所に参詣する者が多かった。
 聖人の遺徳を偲び多くの衆生が後世に広く知りおき、ご供養を続ける為に美作市安蘇、石田清が昭和54年秋に出版の「私たちのふる里」に記された「そば粉聖人」を抜粋したものである。
 平成21年春彼岸 横山郷治謹書 (文:現地案内板より)