武徳殿跡(現中山神社駐車場)

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「武徳殿跡」日露戦役の後、武徳の称揚民間に及び、武徳会津山支所のもとに各所に剣道場が設立されたが、西北部に新進の勢力を助長させるため、大正11年中山神社武徳殿の建設をみ、津山警察署の指導を得て一大進展をみるに至った。かくて勇士雲のようにでて小学校もまたこれに習い、地方の青年有志間においても諸武徳大会に、さらには昭和2年3月大日本武徳会岡山県大会(青年団体の部)優勝という輝かしい成果をおさめた。
昭和18年高田・田邑両村と連合して4ヶ村組合立青年学校を、昭和23年4月組合立津山高等学校中山分校、昭和29年7月に津山市に編入されるにおよび津山東高等学校となり、その後津山市沼の本校に併合され、今は中山神社の駐車場となっている。 (美作一宮の遺産を見つける会発行:美作一宮 郷土の遺産より抜粋)

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上記写真は苫田郡誌より抜粋              この鍵が唯一残っているだけだそうです。

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武徳殿のあったところ                  中山神社の方角

地元の森玄保さんにお聞きしたら、ここは元々山だった所を削って平らにして青年学校を作ったのが始まりで、その後、津山高等学校中山校となったそうです。また、町内の長老保森さん(89歳)によれば、保森さんの子どもの頃には、周囲にはぐるりと梅の木が植えてあり、その内側には桜の木が植わっていて、真ん中にも大きな桜の木があったそうです。桜と梅の木の間には道が出来、そこをぐるぐる走り回って遊んでいたそうです。

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中山神社への通路                    中山神社正門へ


「大正3年9月23日 日本七社聯合敵国降伏臨時祭が中山神社でも行はれた。これは元冦の役からの古例で御鉾祭と云はれているものである。この日神楽 湯立の式 撃剣地行の後秋山正恭による鳴弦蟇目があって祭典を終わり・・一般参拝者無慮八千人に及び奉納相撲 撃剣 弓術等行はれる頗る盛況を極めたり・・」と大正12年刊行の中山神社資料にある。
※七社 武蔵国氷川神社、上野国貫前神社、伊豆国三島神社、駿河国浅間神社、若狭国若狭彦神社、肥後国阿蘇神社、及び中山神社、何れも官国幣大中社。

中山神社武徳祭
 催馬楽にうたはれた
 まがねふく吉備の中山帶にせる ナヨヤライシナヤ サイシナヤ帶にせる ハレ帶にせる 細谷川の音のさやけさ ヤライシナヤ サイシナヤ 音のさやけさ
を、折口信夫は中山神社としており、(古今和歌集1082では、「中山は吉備津彦命の墓のある中山というが別だろう。中山というのは、丘陵あるいは山を、道が通っている場合にその山を中山というので、山陰へ通る道が通っていたのだ。」折口信夫ノート編12 221頁)
(年たけて又こゆべしと思いきやいのちなりけりさ夜の中山 西行)
(弓取りの帶の細さよたかむしろ 蕪村)

梁塵秘抄に
関より東の軍神 鹿島香取諏訪の宮 また比良の明神安房の洲 滝の口や小野の宮 熱田に八剣 伊勢には多度の宮
関より西なる軍神 一品中山 安芸なる厳島 備中なる吉備津宮 播磨に広峯惚三所 淡路の岩屋には住吉西の宮
と西の軍神の筆頭にあげられた中山神社には境内に武徳殿(戦後妙願寺の本堂になったが、今は建て替えられ残っていない。)があって、いつ頃から始められたものか秋分の日(秋季皇霊祭)に武徳祭が永く続けられていた。剣道・柔道・弓道 時には角力も行れ多くの人で賑わっていた。或いは次の鉾立祭が始まるかもしれない。(文:津山市体協 弓道部発行:改稿 津山の弓術より抜粋)


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真応寺跡(森玄保さんにお聞きしたら、武徳殿跡の上り口(中山神社の鳥居左横)にあったそうです。)
 貞観2年(860年)天台の名僧圓仁(慈覚大師)は、諸国行脚の途次、美作一宮の社前に法楽を捧げ、社傍に庵を結んで参籠し(本地垂跡説)、文殊菩薩を祀る堂宇を建立し社僧を置いて奉公させた。これが「霊谷山真応寺」の起源であり、「文殊が畝」の地名も残っている。
 社僧寺真応寺は手水川のほとり(武徳殿跡)にあったが、明治維新により廃寺となった。

(2017年2月6日撮影)