高倉小学校の記念碑

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高倉小学校の記念碑に見る高倉の学校教育
  高倉小学校の校門を入って北側の庭園に、「創立百周年記念碑」と「創立百十周年記念碑」が建っている。また、寄松池の土手から西に坂道を上った峠に、創立百周年記念事業として昭和51年(1976)10月に建立した「高倉小学校創立之地」の碑がある。
 創立百周年記念碑の題字は時の文部大臣奥野誠亮氏の書で、当時の高倉公民館長片山方雄氏の碑文が
刻まれている。碑文を補足しながら高倉の学校教育の歴史をひもとくこととする。
(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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創立百周年記念碑 碑文
 明治五年学制が発布された当時の我が郷土は僻邑であって、学問に志すわずかの者が大篠村善応寺の庫裡で学ぶ。その後、明治9年10月寄松の地に小学校を開設する。明治29年8月18日暴雨のため校舎倒壊、高倉神社の舞台を臨時教室として5年9箇月間ここで学ぶ。明治35年5月15日、現在地に校舎建設、開校式を行い新校舎に移る。明治44年大篠篁高等小学校が解散になり、本校に高等科を併設、大正昭和へと発展する。昭和16年戦時体制下国民学校と改称する。戦後22年新たに小学校が生まれる。大正8年実業補習学校を、同15年青年訓練所を併置、合わせて五千人余りの人材を育てる。この間職員172名、校長20代、校舎建設9回、運動場拡張4回、各種の研究と数々の受賞、学区をあげての教育的事業等々、激動の日本と共に歩み、尊い文化遺産を残す。今や世代わり星移りて一世紀。このたび学区民一同相謀り記念碑を建立し、百年にわたる栄えある校史と輝かしい伝統を万世に伝える。高倉に生れ育つ子が郷土の美しい精神文化を育み、更に進展させることを期待してここに録する。
昭和51年10月 高倉公民館長 片山方雄 撰(2017年2月11日撮影)


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寄松池の土手から西に坂道を上った峠に、創立百周年記念事業として昭和51年(1976)10月に建立した「高倉小学校創立之地」の碑がある。(2013年3月21日撮影)

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明治五年学制が発布された当時の我が郷土は僻邑であって、学問に志すわずかの者が大篠村善応寺の庫裡で学ぶ。
(2014年6月29日撮影)


高倉の学校教育 
 明治5年(1872)に国民皆学を目指す「学制」が公布されたのを受けて、高倉郷4ヶ村の上高倉村と大篠村は、明治8年(1875)に大篠村の善応寺(後に大篠村乗井に移転)に育英小学校を設立し、下高倉村東分と西分(後に下高倉東村・下高倉西村となる)は明治9年(1876)に両村の境界に当たる寄松の地に、寄松小学校を設立して児童の教育を始めた。
 明治22年(1889)の町村制実施により、上高倉・下高倉東・下高倉西の三村が合併して高倉村となり、大篠村は高田村に合併した。これに伴い寄松小学校と育英小学校を廃し、寄松小学校の校地に高倉村全域を学区とする尋常高倉小学校が設立された。当時の小学校は明治19年(1886)に交付された「小学校令」により尋常小学校4年、高等小学校4年で、義務教育は、尋常小学校の4年であった。その後、明治26年(1893)の岡山県第2次小学校令によって、校名を高倉尋常小学校と改めた。
 高等小学校の教育は就学者が少ないため隣村との組合設立が図られ、三村合併後は神庭村と上高倉地内に高等高倉小学校を設置していたが、明治27年(1894)に高田村との組合立篁(たかむら)高等小学校を大篠の育英小学校跡に設立した。
 明治29年(1896)8月台風で校舎が倒壊し、杉森神社(現在高倉神社)の舞台を仮校舎として使用した。下高倉西有重下り(現位置)に新校舎を新築することとし明治35年(1902)5月に落成。運動場に面した校舎の中央が玄関と管理室で、その二階が講堂になっている近代建築の校舎での授業が始まった。

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 明治40年(1907)の小学校令の改訂によって、尋常小学校の修業年限は6年、高等小学校が2年となり、義務教育が2年延長された。これにより、組合立篁高等小学校を廃止して本校に高等科を併設し、校名を高倉尋常高等小学校と改めた。この制度は昭和16年(1941)3月まで続くことになる。
大正8年(1919)に青年期の教育の重要性から実業補習学校を併設した。この実業補習学校は青年学校に発展し、昭和17年(1942)には、高倉・高野・神庭・滝尾村組合立の修練青年学校(翌年白鷺青年学校と改称)を野村に設立するまでになった。戦後の教育改革によって、同校は定時制の組合立白鷺高等学校
となり、津山高等学校中山分校と合併して津山市立高等学校、さらに県立津山東高等学校に発展した。
 高倉尋常高等小学校は、戦時体制下の昭和16年(1941)に国民学校初等科・高等科となって教育目標も大きく変わった。さらに戦後の教育改革で義務教育が9年間となり、高等科に相当する教育が 義務教育3年の新制の中学校に移行したことから、高倉村は高野・神庭・滝尾村との学校組合による鴨川中学校を高野本郷に設立した。これによって校名は高倉小学校となり、新しい理念に基づく初等教育に専念する体制が整った。
 鴨川中学校の校名は、高野・神庭両村が設立していた鴨川高等小学校の名を取ったものであったが、昭和51年(1976)の津山市の中学校統合整備計画によって、鴨川・国分寺両中学校と東中学校一部を学区とする津山東中学校となった。さらに、昭和61年(1986)の中道中学校の新設によって、高倉地区は中道中学校の通学地域となり現在に至っている。
(文:高倉の歴史と文化財より)