勝負山(津山市山方字木梨地内)

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 山頂に径12m、高さ0.5m程の古墳状の高まりが認められる。その上に勝負山の碑(土台石があるが、碑の棹が見当らない)がある。墳丘の西側には周溝を持つようである。
 永禄9年(1567)尼子氏滅亡の後、利元城主福田盛昌、毛利(小早川隆景)に属し、その子勝昌、桝形城をあずかりし天正7年4月、宇喜多直家は、その将・荒神山城主花房職秀をして之を攻む。利元城主福田盛昌は援兵を送らんとするも、職秀の兵これを山方勝負山に打たんとし、激戦の後、福田勢敗る。以後勝負山と称するはこの故なり。なお、敗れた福田氏は勝部に土着したと言われている。『苫田郡誌、久米郡誌』(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日・4月8日撮影)

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(2017年3月20日撮影)