津山の商家が伝えた文人画 ~広瀬台山と飯塚竹斎~

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 「津山郷土博物館 平成26年度特別展 津山の商家が伝えた文人画 ~広瀬台山と飯塚竹斎~(苅田家コレクションより)」が平成26年10月4日(土)~平成26年11月3日(月)まで、津山郷土博物館3階展示室で開かれました。
 苅田家は江戸時代から続く商家で、その邸宅は宝暦年間に建てられたと言われています。このたび苅田家からその邸宅を津山市に寄付されることになり、それに合わせ苅田家で所蔵していた古文書や書画類の多くが寄贈されることになりました。この書画類の中には、津山を代表する文人画家広瀬台山や飯塚竹斎の作品も数多く含まれています。
 この展覧会では、苅田家の書画類の中から広瀬台山と飯塚竹斎の文人画にスポットを当て、津山の商家が守り伝えてきた絵画コレクションの一部を紹介します。(文:津山郷土博物館チラシより)(2016年10月4日撮影)

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ごあいさつ
 重要伝統的建造物群保存地区である城東地区に建つ苅田家の住宅は、宝暦年間に建てられたと言われ、江戸時代の商家の様子を現代に伝える貴重な建物です。このたび、苅田家からその住宅及び酒造場が津山市に寄付され、それに合わせ苅田家で所蔵されていた多くの古文書や書画類が寄贈されました。この書画類の中には、津山を代表する文人画家広瀬台山や飯塚竹斎の作品も数多く含まれています。
 台山は津山藩士で、大坂などで絵を学び、その後、江戸詰めになると、職務の傍ら江戸の文人達と交流をし、画才を開花させていきます。晩年には津山に帰り、津山でも作品を残しました。
 竹斎も津山藩士でした。台山と同様に、藩の御用絵師ではありませんでしたが、画業において優れた才能を発揮しました。
 この展覧会では、津山城下の商家であった苅田家が収集し守り伝えた、台山と竹斎の作品をご紹介し、津山ゆかりの文人画の世界をご堪能いただければと思います。
 最後に、貴重な資料をご寄贈いただきました苅田善嗣氏に心より感謝申し上げ、ごあいさつといたします。
平成26年10月4日 津山市教育委員会教育長 田村芳倫 (文:説明板より)(2014年10月4日撮影)

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苅田家の歴史
 『苅田家譜』によると津山の苅田家は戦国時代、赤磐市にある高尾山城を守っていた苅田四郎左衛門の支族とされている。苅田与右衛門の時代には宇喜多氏に仕え、子の与次郎は秀家の小姓を勤めていた。慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いて主家が滅亡すると、武士をやめることになった。
 元和8年(1622)与次郎の子与三左衛門の時、植月村(勝央町)から津山に移住し、勝間田町に住むことになる。
 与三左衛門の孫で3代与三左衛門の時に問屋業を始めた。宝暦8年(1758)には酒造業を始め、天明4年(1784)には屋号を「苅田屋」から「栄屋」と改めた。
 明治以降も酒造業を続けながら事業を拡大していくことになる。13代善治郎の代には県内初の民間銀行である津山銀行の設立に加わり、取締役、頭取を務めたほか、津山貯蓄銀行の頭取、山陽銀行取締役に就任。その外では津山製糸合資会社の設立に参加。美作で初の電力事業である津山電気株式会社の初代社長を勤めるなど活躍した。
 その後も津山瓦斯株式会社の設立、まつ津山商工会議所の会頭をつとめるなどし、美作地域の実業界に重きをなしている。

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展示風景

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飯塚竹斎
 津山藩士広瀬半助の三男として江戸の津山藩下屋敷で寛政8年(1796)に生まれる。通称は漢之丞・七五三、のち与作、名は翥、字は君鳳、竹斎と号した。文政元年(1818)23歳の時に同藩士の飯塚弥城の養子となる。養子となって間もないころは小姓組で藩主の近習勤めとなり賞詞される働きぶりだった。
 文政2年参勤交代の供で江戸に出立するが、藩の財政逼迫のため翌年津山に帰る。文政7年(1824)には文武不出精で行状不良につき遊芸・遊山・諸猟は勿論酒宴へ出席することは遠慮するよう藩より申し渡されている。
 天保12年(1841)養父の隠居にともない家督を相続。中奥組の支配となる。弘化4年(1847)に中風の悪化により、息子への番代を願い出て許されている。この間の通常の職務については記録が残されていないのでよく分からないが、記録の上では天保5年を最初に、藩から度々画を描く仕事を命じられている。 文久元年(1861)死去。墓所は津山市西寺町の妙法寺。

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広瀬台山「玉女蜂図」              飯塚竹斎

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広瀬台山
 広瀬台山は宝暦元年(1751)当時大坂蔵目付であった広瀬義平の長男として、津山藩大坂蔵屋敷で生まれた。諱は「清風」、字は「穆甫」「台山」と号し通称は「周蔵」後に「雲大夫」と名乗った。大坂時代には画法を福原五岳に学ぶ。五岳は池大雅に師事し関西文人画壇の重鎮といわれた人物である。安永4年(1730)家族とともに津山へ帰ることになった台山に、師の五岳より「画石三面方図」が贈られている。
 安永8年(1781)父の隠居に伴い台山は家督を相続する。翌年には京都御留守居見習役を仰せ付けられ京都で生活するようになった。天明元年(1781)には江戸定付を命ぜられ、江戸藩邸での職務をこなす傍ら江戸に集まった多くの文人と交友を持ちすぐれた作品を残している。
 享和3年(1803)数年来の病気と老衰を理由に家督を息子に譲り江戸の麻布長坂に移り住む。文化8年(1811)には江戸を離れ津山に帰ることになるが、この時に交友が深かった谷文晁などによる送別の書画が贈られている。津山に帰った台山は一時、弟で上原家に養子に行った上原彦蔵の元に滞在するがその後新田村(津山市小田中)に移り住む。ここですぐれた作品を残すが文化10年(1813)その生涯を閉じた。

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飯塚竹斎

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津山郷土博物館は近代建築 津山の美術館


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