元魚町の古称刻む徳守神社境内の石灯籠

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 慶長九年(一六〇四)、森忠政は徳守神社を城下の総鎮守として、築城と城下作りに取りかかったといわれる。以後、徳守さまと呼ばれて津山の人々に親しまれ、今も津山祭の中心として秋祭はにぎわう。その境内の北西の角、住吉神社の前に高さ約二㍍の二基の石灯籠が立つ。すっきりしたデザインは風格を感じさせる。左側の石灯籠に「寛文四年(一六六四)辰九月十九日古魚町」と刻まれる。右側の石灯籠には「寛文四年(文字が消えかけているが、間違いないと思われる)辰九月十九日二丁目」とある。
 寛文四年は津山城が完成した元和二年(一六一六)から四十八年後。森藩が徳守神社北側の武家屋敷の一部を町家にして、宮脇町と名付けた明暦元年(一六五五)よりも九年後。この時期に、藺田川以西の町も城下に編入されていった。城下の町々が整い、発展を見せていた時期といえる。二基の石燈籠はそうした時期に、隣接する古魚町(元魚町)と二丁目が協力して町の発展を願い、寄進したのであろうか。森藩時代の町々の記録が少ない中で、この石燈籠に刻まれた二つの町名は当時を窺わせる貴重な資料の一つと思われる。二丁目と元魚町の中では最も古い記録である。

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 二丁目の文字はそのまま今の町名に結び付くが、いま一基に刻まれている古魚町を元魚町の古い町名としているのは、明治十六年の矢吹正則著『美作国津山誌』で、次のように記している。
「元魚町。南北に位置する。東は二階町、西は二丁目に接し、南は堺町、北は田町に隣接している。初めの頃、この町は魚物を売っていたので魚町と称していたが、後に新魚町が出来たので古魚町と称し、後に元魚町と定めた。あるいは、こういっている。森藩は初めに町を設け、この町を一丁目と名付けたが、その売るところの物の名によって魚町と称した。新魚町が出来たので、古魚町と改めた。考えるに、今は二丁目、三丁目がその西に続いているのを見れば、この説は取り上げてもよい。記して参考にする」

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 『美作国津山誌』の記す町名の由来が、どの記録から出ているのか明らかでないといわれているが、石灯籠が隣接する二丁目と一緒に寄進されていることから見て古魚町は元魚町のことであろうし、少なくとも寛文四年(一六六四)までは古魚町と呼ばれていたに違いない。町名からみてもおそらく魚類の商売をする家が多かったと思われるが、その商売が新魚町へ移った理由は明らかでない。
 現在の元魚町の名称に改められたのは、もちろん寛文四年(一六六四)以降だが、元禄十年(一六九七)の『美作国津山惣町改帳』には元魚町とあり、寛文四年から元禄十年までの三十三年間に町名を変更したものと見てよい。「古」も「元」も同じような意味であろうが、改称の理由とはっきりとした時期は明らかではない。(文:『出雲街道第6巻』より抜粋)

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住吉神社

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住吉神社

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住吉神社(2017年8月25日・9月3日撮影)