森氏の祖 妙向尼創建 「法雲山 妙願寺」

myouganji9.jpg

  妙願寺は、岡山県津山市戸川町にある浄土真宗本願寺派の寺院。「鶴山御坊」ともいう。山号を「法雲山」といい、美作国の触頭を務めた。
 森蘭丸の母・妙向尼の発願によって建立された。妙向尼は元亀元年(1570年)に始まった織田信長と石山本願寺との争い(石山戦争)の和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った人物である。
 信長は、本願寺との和睦に際して「森氏の金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に提示した。妙願寺はその事情の下に、最初は妙向尼の末子・森忠政を僧形として金山城下に建立する予定であった。
 しかし、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変により、妙向尼の子息である森長定(蘭丸)・森長隆(坊丸)・森長氏(力丸)が信長と共に討死し、同12年(1584年)には小牧・長久手の戦いで二男蘭丸ら三兄弟の兄であった森長可(金山城主)が戦死してしまった為、ただ一人残った忠政が森氏の世継ぎとして金山城を継ぐこととなった。※詳しくは下記に続く。

myouganji13.jpgmyouganji10.jpg

山門

myouganji7.jpgmyouganji14.jpgmyouganji16.jpgmyouganji17.jpg

筋塀

myouganji55.jpgmyouganji54.jpg

筋塀

myouganji2.jpgmyouganji1.jpgmyouganji3.jpg

昔のままの石垣と塀

myouganji4.jpgmyouganji6.jpgmyouganji53.jpg

山門の瓦と彫り物

myouganji18.jpgmyouganji28.jpg

太鼓楼                      鐘楼

myouganji36.jpgmyouganji59.jpg

鐘楼

myouganji29.jpgmyouganji30.jpgmyouganji31.jpg

境内に咲く百日紅と紫式部

myouganji46.jpgmyouganji24.jpg

庫裏及び客殿は津山市指定重要文化財(建築物)です。

myouganji21.jpgmyouganji20.jpg

本堂

myouganji22.jpgmyouganji23.jpg

森忠政の母、妙向禅尼像

myouganji25.jpgmyouganji26.jpg

式台

myouganji45.jpgmyouganji34.jpgmyouganji35.jpg

境内の石碑(津山保育園発祥の処)

myouganji50.jpgmyouganji51.jpg

境内の燈籠 (2017年8月26日撮影)


寺伝によれば、森蘭丸の母・妙向尼の発願によって建立された。妙向尼は元亀元年(1570年)に始まった織田信長と石山本願寺との争い(石山戦争)の和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った人物である。

信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に提示した。妙願寺はその事情の下に、妙向尼の末子・森忠政を僧形として金山城下に建立されたのである。

しかし、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変により、妙向尼の子息である森長定(蘭丸)・森長隆(坊丸)・森長氏(力丸)が信長と共に討死し、同12年(1584年)には小牧・長久手の戦いで二男森長可が戦死してしまった為、ただ一人残った忠政が森氏の世継ぎとして金山城を継ぐこととなった。

そこで妙願寺は、蘭丸の姉・碧松院と関成政(一宮城主)との間に生まれた竹若丸を森家として出家得度(法名・了向)させ、初代住職とした。本能寺の変により信長が討死したとはいえ、信長との約束を忠実に守りたいという妙向尼の思いが竹若丸の出家に繋がったのである。

慶長8年(1603年)、森忠政が美作全域18万6,500石を入封、美作に入国し津山に城の造営を始めた。甥の了向も忠政に従い美作に来た。、元和2年(1616)忠政は津山城築城の工事を終えて、翌元和3年(1617年)に津山に妙願寺の工事にとりかかった。これが津山妙願寺である。

2代目住職の紹向は、木下勝俊・うめ(蘭丸の姉)夫妻の養子である。関ヶ原の戦いで伏見城の守備を任されていた勝俊は、敵軍が進攻してくる直前に伏見城を退却するという不首尾を起こし、勝俊は領国を没収された。それが原因となって妻のうめと離縁したのであるが、紹向も妙願寺へと移り住職を継承した。

3代目住職の順恵は森忠政の孫清光院を室に迎えた。こうして妙願寺は藩主との縁を保ちながらも世襲により受け継がれている。

本願寺では、妙向尼100回忌までの年忌法要を宗主自らにより自主的に執り行われていたという記録が記されている。このことからも本願寺を救済した妙向尼の功績の大きさを知ることができる。

元和7年(1617年)本願寺12代宗主准如上人より妙願寺2代紹向に「妙向尼画像」が贈られているが、これは現在、岡山県指定重要文化財として保存されている。 元禄11年(1698年)に妙願寺は東派(真宗大谷派)へと転派し、「院家寺」となった。享保12年(1727年)には「輪番」ともなった。そして、再び本願寺派へと転派している。

平成17年(2005年)、津山城跡に完成された備中櫓二階壁面の鶴の丸の文様は、妙願寺庫裡の襖にある鶴の紋の文様が建造時の森家時代をイメージさせるという理由で、格の高い部屋の復元に取り入れられたものである。(ただし、これは近代のデザインであり、往時のオリジナルとは異なる。)

(文:ウィキペディアより抜粋)(加筆:妙願寺住職 森嵩正氏)