【津山人】浮田佐平(1867-1939)

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 浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
 父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
 母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。 
 浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
 大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
 それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。

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美作特産 珍陶 佐平焼に就て
 我が美作の地は遠く元禄年間より陶窯の業起り一時隆盛なりしも嘉永年間漸く衰へ爾来中断され久しく郷土の陶器に接することを得ざるを憾み、再び古き歴史を持つ郷土に特質ある陶磁器を産出し、永久に傅へんと企画し、我邦著名の窯元を年餘に陟り歴訪し、苦心研究の結果遂に釉薬と原土に獨自の發見を爲し、茲に於て勇躍意を決して窯場を新設し、多大の犠牲を拂ひ、一面陶藝界の巨匠を招き種々批判を乞ひしに非常なる讃辭を受け始めて弘く愛陶家に頒つに至る。
 珍陶の稱、佐平焼の名、共に斯界の巨匠並びに権威ある陶磁器鑑賞家より命名さる。
 品質は非常に硬度高き爲め實用に適し、その髙雅なる獨特の風趣と気品は一般家庭の宝飾品として無二の雅品なり。 敢へて世の好事家の御愛翫を乞ふもの也。
美作津山市伏見町
窯元 浮田佐平

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在りし日の養蚕所並びに製紙場

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浮田佐平翁寿像建設記念絵葉書(鶴山城址ヨリ浮田商店製糸向上ヲ望ム)

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『金銀の結晶 佐平焼』より工場内写真

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植林・製材
 明治28年(1895)、佐平は植林を志し、大正4年(1915)までに勝田郡・苫田郡内において200町歩の植林を進めました。明治33年には、雑木製材業をはじめ、各地に水車製材所を設置しました。
 大正12年56歳のとき、東京大震災にあたって、植林間伐材5500本を輸送し、寄附しています。

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三椏販売
 明治32年(1899)、32歳になった佐平は、三椏を試植し、売買を始めました。各郡農村に三椏の移植を勧誘し、販売会社を創設しました。のちに組合を組織し、顧問になりました。

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奥津の観光開発
 大正2年(1913)、46歳になった佐平は、奥津村大釣の地に「ラジーム」温泉を発見し、無料入浴場を設置します。昭和7年(1932)には、大釣温泉に数万円を投じて大施設を建設する計画を立てました。

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水平(みずのだいら)焼 皿
岡部源四郎が完成させた赤海鼠釉の皿。日英博覧会では、赤海鼠のコーヒーセットが銅賞を受賞しています。佐平が岡部源四郎から購入したものと考えられます。

情報収集 
 佐平は、独自の焼物を完成させるため、全国各地の窯元を訪問したと言われています。のこされている手紙などから、京都と熊本県の天草に行っていることがわかります。
 当時、京都には市立陶磁器講習所と国立陶磁器試験所がありました。そのどちらにも最先端の技師が在籍しており、佐平はその両方の技師と手紙をやりとりし、さまざまな情報を得ています。
 大正12年(1923)、佐平は天草の水平焼五代目岡部源四郎と会い、意気投合しました。源四郎は、いままでになかった赤海鼠の釉薬を完成させ、万国博覧会において賞を受賞していました。源四郎は実際に津山に来て、アドバイスをしたと考えられます。

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窯を築く
 佐平は、大正12年(1923)の秋から冬にかけて、津山城跡の東、宮川のほとりの稲荷山地区に、5室の登窯をつくりました。窯をつくるにあたっては、京都や天草の職人が津山に来たと考えられます。
 佐平は、5室の登窯をつくったのち、大量生産のため、12室まで増築しました。

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献上品として
 佐平は焼は何度も皇室への返上品に選ばれました。写真は、大正15年(1926)、皇太子の行啓の際、鶴山館に並べられた津山の物産で、右上に佐平焼の花器と水盤が見えます。

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果樹園の経営
 昭和11年(1936)3月には、指導者を招き、約30町歩の果樹園を経営することを発表します。この時、佐平は68歳、すでに病で倒れたあとでした。

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実業家 浮田佐平
 昭和11年(1936)佐平69歳のとき、製糸業をはじめとして様々な事業を展開し、地域振興に尽くしたことなどをもって、浮田佐平翁寿像が建設されました。
 佐平焼製造は、佐平がそれまでに展開してきた多彩な事業に支えられていたのです。

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竹製品の加工・販売
 時期ははっきりしませんが、竹を使った製品も加工・販売していました。花器やステッキなどです。

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佐平館と庭

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佐平館と庭

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佐平館と庭

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さまざまな挑戦
 佐平焼は結晶釉を用いた花器が中心です。しかし、佐平が製造していたのはそれだけではありませんでした。置物、食器、結晶釉以外の釉薬を用いた花器などさまざまな可能性を模索していました。
 アドバイスをもらっていた京都の陶磁器試験所の技師が、非常に困難としている釉薬にも挑戦しようとしています。

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難しい結晶釉
 結晶釉とは、釉薬のなかに溶けているある成分が、焼成後の冷却中に結晶となって固まったものを指します。佐平焼のなかで一番多くのこされているのは、結晶釉を用いた花器です。
 結晶釉は、当時最先端で、釉薬の調合・温度管理など、非常に難しい釉薬でした。佐平は、独自の焼物を完成させるために、あえて難しい結晶釉に挑戦したのではないでしょうか。
 佐平は、出来に満足できなかったものは倉庫にしまいこんでいたと言われています。市場に出さず、倉庫にしまいこんであった大量の花器と、釉薬の調合メモが書かれた佐平の手帳からは、困難を極めた様子がよく伝わります。

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佐平館の中から庭を望む             展示の様子

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佐平焼き

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「売らずの佐平焼」
 佐平は、未完成の佐平焼を市場に出したのでは津山物産の名を汚すと、当初焼いては倉庫にしまいこんだと言われています。そのことで「売らずの佐平焼」と呼ばれていました。
 実際には昭和6年(1931)から一般に売り出しています。昭和9年には当初の目標の一つであったロンドンへの輸出契約にまでこぎつけました。
 しかし、同年佐平は病を得て、その後佐平焼は製造されませんでした。

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綺麗な色や文字の入った佐平焼き

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佐平館での展示の様子

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佐平館での展示の様子

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佐平館での展示の様子

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2017年11月3日~5日まで佐平館で催される「佐平焼展」の準備中にお尋ねしてきました。(文提供:佐平館)(2017年10月25日撮影)