津山と松尾芭蕉の縁

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 津山城(鶴山公園)に松尾芭蕉の句碑がある。津山と松尾芭蕉の縁を調べてみました。


 全国に知られた富豪で俳人でもあった蔵合の五代目孫左衛門直良は、元禄(1688-)から享保(1716-1734)年間頃、全盛を誇った蔵合家当主。西鶴が『日本永代蔵』にえがいたのも直良の時代と思われるが、芭蕉とも交友を結び俳人でもあった富豪の面影をしのばす。俳号は「推柳」という。句集『夢三年』(寛政12年、岡山の佐々木松雨が編集)の中に、芭蕉の友人・山口素堂の一文をのせている。その中に「津山の住、推柳子のもとへ赤木氏より、わが友芭蕉の翁が絵かきて自ら賛せるを送らせー」とあり、芭蕉と蔵合直良推柳の交友を窺わせる。芭蕉が送った自画賛については享保元年(1716)に、やはり芭蕉門の俳人・月空庵露川が門人の燕説を供に津山を訪れた時の紀行『西国曲』に次のように記されているという。紀行には蔵合の繁栄ぶりを示す記事もあり、西鶴の『日本永代蔵』をさらに裏付ける。(2015年4月21日撮影)


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「美作の国津山に至りて蔵合推柳を主とす。別家に移して向ふを見れば、土蔵の屋根並びて普請の音はるかに、庭は松はらはらとして閑なること市中を去るが如し。
白壁やしかのみならず 松の花    露川
銀屏の雲の気色や 夕雲雀      燕説」
 芭蕉の書については「美作や推柳子の亭に遊びて蕉翁の手跡を見る。夕にも朝にもいかず瓜の花とや。げに朝顔のあわれ、夕朝のまずしきにあらず」といっている。
 俳人・推柳の句は宝永から享保にかけたものが残り、30歳代後半から40歳代前半と推定されるという。
春雨や柳に蝶の日 さだまらず
落かかる雪のくらみや 藻刈舟
惟光に紙燭めしけり 猫の産
わこあゆむ影冷たしや 木瓜の花
岩つぼや中に夏なき 一世界
 池田土城さんは「推柳は各句集におけるその句の処遇から見ても、津山の代表俳人であることはもちろん、隣国でも高く位置づけられていたことがわかる」としている。以上が『美作俳諧温故』からだが、全国に知られた富豪ぶりも俳諧の中にしのばれる。

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(2017年6月4日撮影)


蔵合家について
蔵合は松平家文書(愛山文庫)の中に残っている由緒書ともいわれる記録に「津山に城が建てられることになったので、院庄から当地(二階町)に居宅をつくった」とあるように、森忠政が美作入りをした江戸初期、院庄を本拠地にしていたことがわかる。院庄は美作国の守護館が置かれ、中世以降は行政の中心として栄えた地だが、ここで勢力を張っていたことを窺わせる。美作入りをした森忠政が一時期、院庄にとどまっていたことからつながりを深め、城下の建設にも従事しながら財を築いていったのであろうか。
(文:『出雲街道第6巻』より抜粋)