天守にある「常用の井戸」

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お城の井戸
 雨上がりの津山城跡を訪れた時、石垣から大量の水が噴き出しているのを見かけた。その場所は裏中門南桝形南面の石垣である。津山城跡の中で唯一岩盤が観察される場所である。北斜面の地形を削平し桝形を造出しているが、この時、南石垣面で高さ約1メートル程度にわたり岩盤が削り取られている。石垣はこの岩盤の上に直接積まれており、地下に浸透した雨水はこの岩盤面をつたって石垣から噴き出していたのである。これを見て、丘陵の頂部に位置する本丸の井戸にも水が溜まるということが理解できた。

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 平野部に位置する井戸は、平面形が円形になるように石組みされているのが一般的である。深さは地下水位以下に掘り下げておけば水は溜まる。しかし、本丸の井戸のように丘陵の頂部に位置する場合、地下水は期待できない。そこで、考えられるのが雨水あるいは地下浸透水を確保するという方法である。
 井戸を掘削する際、土の層を堀り抜きその下の岩盤を堀り窪めておけば水は溜まる。前述したように岩盤面は、排水面であることから低いところに溜まるのは当然のことである。岩盤部分は漏水もないし、形状は保障されているから石組みの必要もない。岩盤に達するまでの土質が粘土あるいは粘性の強い土であるか否かによって水位は異なる。すなわち、粘性の強い土は水を通さないが、そうでない土の場合は石組みをしてあったとしても水は漏水してしまうからである。

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 本丸御殿台所南側の井戸は今も水を湛えたいる。ちなみに、平成18年1月17日現在の現地表面から水面までの深さは約12メートル、井戸底部までは約19メートルであった。井戸の内径は約1メートルであるから、今も約550リットルの水を湛えていることになる。『作州津山御城内之記作州津山之御城開築』が記す「本丸井地形より拾間水深サ五間」とは、この井戸のことを指している。
 参考までに、備中櫓北側の五番門付近のボーリング調査では、現地表面から約5メートル下が岩盤という結果が出ている。単純にボーリング地点と井戸の場所との岩盤レベルが同じと想定した場合、この井戸のために掘り下げた岩盤の深さは約12メートルということになる。そして、その底面は二の丸の段よりもさらに6メートル低い位置に相当することになる。

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 津山城内には、いくつの井戸があったのだろうか。絵図により描かれている数が異なるが、合計7箇所を確認することができる。
 大手虎口から順に見ていくと、冠木門を入った枡形の北側、表中門南東の三の丸塩硝蔵入口部分、表中門北側の石段の東側、二の丸御殿、前述した本丸御殿台所南側、本丸御殿金鷺の間の西側、残り一つは涼櫓北側の石垣下に位置する。この他に、前書には「四ッ足門ノ内二崩井一」という記述が見られる。
 この内、本丸御殿金鷺の間の西側に位置する井戸は、安全性確保のためかカンクリートで埋められていることが発掘調査で確認された。また、濠の内に位置する宮川門、京橋門、二階町門、田町門、作事門、北門の六箇所の門のうち、作事門を除く五箇所の門の内部にはいずれも井戸が設けられていた。『勘定奉行日記』には、本丸の井戸が涸れ、二の丸、三の丸の井戸から水を汲み上げたという記事が散見され、水の確保に苦労した様子が窺える。

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津山城の排水システム
 本丸御殿には多くの人が居住していました。人がいれば当然生活排水が出ます。また、御殿屋根から落ちる雨水の処理も必要でしょう。津山城ではそのような排水をどのように処理していたのでしょうか?
 排水をそのまま地下に流すと、地下には水がたまり、それが石垣を内側から圧迫して、最後には石垣が崩壊してしまいます。石垣にとっては内側からの水圧は大敵なのです。明治時代に腰巻櫓の石垣が崩壊したのも、上に建てられていたが櫓が撤去され、雨水が直接石垣に浸透したのが原因ではないかと考えられます。
このように、とくに石垣で囲まれた近世の城においては、水の処理がたいへん重要な課題であったため、石垣の外にいかに効率よく水を逃がすか、いろいろと工夫がありました。津山城においても、これまでの調査でいろいろな場所で排水にかかわる施設が確認されています。
 まず、主要な建物の周辺には「雨落溝」があります。これは現在の「雨どい」と同様な機能を持っており、軒先から地面に落ちた雨水を集めるためのものです。これはおもに石を組んで作られていました。
 次に、地下には暗渠排水が各所に張り巡られています。要所には瀬戸内海の豊島で取れる「豊島石」製のU字溝を配し、多くの部分は木の樋で作られていました。この木樋は現在では腐朽して残っていませんが、釘の痕跡から厚さ5センチメートルを超えるような分厚いものであったと推定されます。また、この暗渠には「集水桝」が設置されていました。この暗渠排水は、建物の建て替えなどにより、幾度となく改造されていることも分かっています。

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 これらの施設を通った排水は、石垣の基底部や石段の脇などに設置された排水溝により徐々に本丸・二の丸・三の丸と流されていきます。また、石垣の所々に四角い穴があいているのをご存知かもしれませんが、昔から「抜け穴」などと言われているこの穴が、石垣の内側から外側に水を逃がす「排水穴」なのです。城内に張りめぐらされた暗渠排水の中にはこの排水穴に通じているものもあるのです。
 これらの施設によって、明治の廃城まで排水は効率よく処理されていたのです。
 ところで現在では、これらの排水施設はまったく機能していません。明治以降、いろいろと工夫をしながら鶴山公園としての排水設備を整えてきていますが、江戸時代のものを超える排水システムを構築するのはなかなか困難なようです。
(文:『津山城百聞録』より抜粋)(撮影:2014年3月2日・2016年4月20日)