全国に知られた富豪「蔵合家」

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全国に知られた富豪「蔵合家」
 二階町をはじめ津山の城下町の成り立ちに深いかかわりをもったと思われる「蔵合家」について。
西側の家並の中で、現在の日専連ビルから北の中央病院の寮(旧電々局合)まで、二階町の表通りに面して日専連ビル、美作印刷、津山郵便局、津山中央病院寮が並んでいるが、江戸時代には蔵合家がここに居を構えていた。
「津山惣町改町」の二階町の項に、南から「西へ通る横丁あり。蔵合孫左衛門=表口23間、奥行17間、京町塩谷新兵衛持ち屋=表口4間半、奥行17間、白銀屋久兵衛=表口7間、奥行17間。西へ通る横丁あり」と記される。南の「西へ通る横丁あり」は日専連ビルの南側の通りで「馬方町」ともいわれる。次の「横町あり」は中央病院横で「八百屋町」と呼ばれていた通り。ともに舗装の下に元禄期の小路がそのまま息づく。
現在も家数は少ないが、元禄10年はわずかに3軒である。大半を「蔵合孫左衛門」の家で占め、表口は23間(約41㍍)である。

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 蔵合は松平家文書(愛山文庫)の中に残っている由緒書ともいわれる記録に「津山に城が建てられることになったので、院庄から当地(二階町)に居宅をつくった」とあるように、森忠政が美作入りをした江戸初期、院庄を本拠地にしていたことがわかる。院庄は美作国の守護館が置かれ、中世以降は行政の中心として栄えた地だが、ここで勢力を張っていたことを窺わせる。美作入りをした森忠政が一時期、院庄にとどまっていたことからつながりを深め、城下の建設にも従事しながら財を築いていったのであろうか。

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↑日専連の建物から西を望む           ↑日専連のビルから北方面を望む

 この元禄の蔵合を一躍有名にしたのが井原西鶴の『日本永代蔵』である。元禄元年(1688)正月の刊行。「大福新長者教」の副題がある。富を築くために町人のあるべき姿を示そうという教訓を込めた物語といわれ、西鶴の作品の中で最も広く読まれたという。蔵合の名前が出るのは巻5の「三匁五分曙のかね」である。物語の中心は万屋の衰退だが、その中の数行に蔵合の記事がある。
「久米の更山さら世帯より年月次第に長者となり、美作にかくれもなき蔵合に立ちつづきて、人の知らぬ大分限者万屋という者有り」「蔵合といへる家は、蔵の九つ持ちて富貴なれば、是又国のかざりぞかし」
西鶴の描いた元禄時代が蔵合の全盛期でもあったようで、出雲街道筋が二階町で一部変更されたのも蔵合と関連があるように思える。
 当時の蔵合は新しく津山藩主となった松平家の下で、大年寄、藩札発行の札元として、城下の治政、経済の中心であった。出雲街道筋の変更も、こうした蔵合の活躍と無関係ではあるまい。

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 太宰治は西鶴を現代によみがえらせ、その作品『お伽草紙』の中で次のように書いている。
「むかし美作の国に、蔵合という名の大長者があって、広い屋敷には立派な蔵が9つも立ち並び、蔵の中の金銀、夜な夜な呻き出して四隣の国々に隠れなく、美作の国の人たちは自分の金でも無いのに蔵合のその大財産を自慢し、薄暗い居酒屋でわずかの濁酒に酔っては"蔵合さまにも及びもないがせめて成たや万屋に"という卑屈の唄をあわれなふしで口ずさんで淋しそうに笑い合うのである」

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 蔵合の屋敷は屋敷は表口が23間(約41㍍)、奥行が17間(約31㍍)の広さを持つ屋敷だが、9つの蔵が並んでいたのはどのあたりあろうか。元魚町と接した家裏あたりにあったのであろうか。もはや面影すらもうかがうことはできないが、元禄期の蔵合は津山城下第一の屋敷を町の真ん中で、まさに「蔵合さまには及びもつかないがー」と城下の人々が口にするにふさわしい構だったに違いない。
全国に知られた富豪でありながら意外に蔵合の資料は少ない。
(文:『出雲街道第6巻』より抜粋)(2017年12月15日撮影・昔の地図は鶴山館にて撮影)

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上記図は森本家(錦屋)の講演の時の資料から。年代を追っていくと蔵合家が無くなっている。

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お堀のなごりが二階町との境です。

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二階町(突き当りが郵便局)           二階町

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いつの頃の建物でしょうか、名残があります。