津山城・津山の城下町

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津山城
 津山城は1604年(慶長9年)に着手され、13年後の1616年(元和2年)に完成しました。
 この場所は鶴山を中心とする一帯で、藩主にとっては城下町をつくり、常備軍をひざもとにおいて不意の戦争に備え、農民に対して武士の力強さを誇示できると同時に、藩内の統治にもっとも便利な場所として選定されたものと考えられます。
 形式は丘陵とそのふもとをとりいれた平山城で、縄張(郭.堀.城壁.虎口等の配置規模を決めること)は巧妙で、また施設も堅固にできており、本丸を守るためにとてもよく考えてつくられています。
 山頂に本丸を定め、その西部か堅固な石垣で区切って、ここを天守曲輪とし、中央に五層の天守閣が設けられています。その東側と本丸を東北に向けて強く張り出させたところには特に髙い石垣を築いて櫓を点在させています。また、北側の急斜面はこれを利用して坊塁を築き、東側のがけは急な勾配で宮川に面しているので、そのまま防備に利用されています。

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 本丸の周囲には二の丸と三の丸の曲輪が配置され、その下には南から西にかけて巾広く馬場がめぐらせれ、さらにそのふもとを区切って内山下が配置されています。
 そして城郭の内外は、宮川・内山下の外側に設けた堤と堀で厳重に区分されています。
(文:鶴山館内の案内より)(2015年4月9日撮影)

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 森忠政が津山藩主として入封したのは1603年(慶長8年)のことです。築城と城下町造成の事業はその翌年から着手されました。そして城は1616年(元和2年)に完成し、城下町はそれから数年おくれて元和のおわり頃に当初に計画されたいた範囲の造成を終えました。しかしその後も必要に応じて東・西・南に向けて拡張がすすめられたので、城下町して十分な機能を備えたものとして完成されたのは着手後およそ60年を経た寛文年間(1616~1672年)のことです。

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津山の城下町は、大きく家臣の屋敷地と、商人や職人の町人町、それに神社や寺院の占める寺社地に分けられます。

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 侍の屋敷町には城郭の防衛最も重要な場所が選ばれました。山下、田町、椿高下、御北、城代町、南新座、西新座、上之町、雑賀町、鉄砲町、小田中新屋敷、東鉄砲町がそれです。

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 町人町は、おおむね経済や、交通の便宜を考えて定められています。
そして城の大手口を中心にして東西に表街道(=出雲街道)を通し、それに沿った町を町人町の中核とし、城郭に接する場所には有力商人を配置しました。京町と二階町がそれです。

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また各種の職人の町としては、職種別に裏町や横町といったところが選ばれています。町の名称は、それぞれの由来や所在地の地形、住民の職種、出身地の地名、成立の新旧などを物語っています。

(2015年4月9日取材)